「ふたつの小田原城」

〜城跡de ランチ&デザートの添え物として〜

初稿公開日:2015.5.15

小田原城には天正18(1590)年に勃発した小田原の役を境とする、「中世小田原城」と「近世小田原城」という二つの顔があります。全く性格の異なる二つのお城が同時に楽しめる場所、それが小田原城です。

1.中世小田原城

(1)歴史概観
まずは中世小田原城について、その歴史を押さえておきましょう。そもそも小田原城はいつから存在したのでしょうか。その答えは定かではありませんが、「鎌倉大草子」には康正2(1456)年に大森氏が「小田原の城をとり立」てたとの記載があります。後北条氏以前に小田原を拠点としていた大森氏はもともと駿河の武将でしたが、上杉禅秀の乱(応永23(1416)年)で功により小田原に移ってきたとも言われていますので、小田原城の築城年代は古くて15世紀前半、新しくて15世紀半ばというところでしょう。
小田原城が歴史の表舞台に飛び出すのは、なんといっても伊勢宗瑞(北条早雲)が奇計をもって小田原城を奪取する、という事件があってからのことです。火牛の計、とやらで牛の角に松明を灯して攻め落としたなどという説は絵巻物か何かの世界でしょうけれども、早くて明応4(1495)年、遅くとも文亀元(1501)年までに小田原城は後北条氏の傘下に収まっていました。
それからおよそ60年の後、後北条氏三代・氏康の時代になって、小田原城は立て続けに二度の危機を迎えます。最初は永禄4(1561)年の長尾景虎(上杉謙信)による小田原城攻め、お次は永禄12(1569)年、武田信玄による小田原城攻めです。いずれ劣らぬ戦国時代のスーパーヒーローに続々と攻め込まれるのですから、実に幸せ・・・いやいや実に穏やかならざる事態です。実際のところ上杉も武田も本気で小田原城を落とすつもりはなく、どちらかというと示威行為に近いものであったと考えるべきところですが、二度に亘る危機を乗り越えたことで、難攻不落の小田原城の名声は大いに高まりました。何よりもまず、当の後北条氏自身が小田原城への信頼感を強めたことは想像に難くありません。
時は下って天正18(1590)年、中世小田原城は最期の時を迎えます。天下統一の総仕上げとして行われた小田原の役は、3月29日の山中城攻防戦に始まり、7月5日の小田原城開城をもって幕を閉じました。北条氏邦が居城の鉢形城に引き上げてしまったり、「小田原評定」という有難くない評判が立ったりもしますが、実は小田原の役の3年も前から総構の建設に着手しており、要害堅固な小田原城で持久戦を行い、兵糧が尽きるのを待って和議に持ち込むという戦略構想は、かなり早い段階で定まっていたようです。
余談ですが、過去ランチ&デザートオフが開催された足柄(2007)、山中(2008)、茅ヶ崎(2009)、石垣山(2010)、小机(2012)などの諸城の多くが小田原の役に直接間接に関わっています。そういう意味で、ランデザ節目となる第10回会場に小田原城が選ばれたことには、実に意義深いものを感じます。
(2)八幡山古郭
さて次に、中世小田原城の姿を探っていきましょう。一般に中世小田原城は、現在の天守が建つ近世小田原城を見下ろす「八幡山古郭」と呼ばれる一帯が主郭部分だったと考えられてきました。ただ、実際に八幡山古郭を発掘してみると案外遺物が少ないので、その考え方にも異論が出ています。とはいうものの、小田原の役の陣容を記した図面を見ると小田原城内には「氏政本陣」と「氏直本陣」が別々の陣であったことが描かれています。図面の方位から見て氏政本陣が八幡山、氏直本陣が天守のあたりと推察されますので、本城は天守近辺にあり、八幡山は隠居城だったと見ることも可能でしょう。
八幡山古郭は、小田原高校の建設や公園化、宅地化によって昔年の姿をかなり失っています。それでも小田原高校の校舎建替え工事の際には現在グラウンドとなっている旧校舎の場所から障子堀が検出され、大きな話題となりました。「プールが入る広さです」と説明を受けたことがありますが、堀幅が25mに及ぶという意味だったということを後から聞いてびっくり仰天。小田原高校の南隣には櫓台の土塁が残存している他、グラウンドの片隅には「ヨ」の字型の三味線堀がごくごく薄く残されています。氏政本陣と氏直本陣とを繋いだであろう階段状通路も見つかりました(非公開)。石垣で守られた堅固な階段で、頭の中で復元図を想像すると、八王子城の御主殿入口のような風景が目に浮かびます。
八幡山古郭の高低差は昔も今も健在です。小田原駅から八幡山に向かうと、八幡山が案外急峻な山であることがわかります。歩きながら、思わずあなたはつぶやくはずです。「こんな城、落とせねーよ」と。
なお、近世小田原城の下や城下町にも、あちらこちらから障子堀が検出されています。これらすべての堀が直接的に小田原城に繋がるわけではなく、障子堀を持つ方形の武家館が列をなしていた時代があったのではないか、というのが最近の考え方のようです。

(3)大外郭(総構)
さてさて、いよいよ大外郭(総構)です。決まった名称がありませんので、ここでは総構で通します。総構の全長は9kmに及び、現在の小田原市街をもすっぽりと包み込む広さです。「北条五代記」によれば、往時は総構のところどころに「白亜」の櫓が立っていたといい、後に誕生する大型の城下町はみな小田原城の総構を規範としたものと言われています(江戸や大坂、名古屋などがその典型)。
ただ、小田原城に総構が存在した期間は驚くほど短いものでした。三の丸外郭に「新堀(総構のひとつ内側の堀)」が形成されたのは、普請文書などから天正12(1584)年と推測されています。3年後の天正15年に新堀近くの伝肇寺が土地を取得した際の図面には、新堀は境界線として登場しますが総構の姿は見当たりません。総構は天正15年より後に作られ、小田原の役があった天正18年には役割を終えるわけですから、総構が機能していたのは長く見積もっても3年ということになります。なんとも意外。
なお、総構は徳川家康によって破壊されたことになっていますが、現在でも案外残っている箇所が多いことに驚かされます。平野部では東側の「蓮上院土塁」が最も残存状況のよい場所で、西側の「早川口二重戸張」には堀を挟んだ二重の土塁が明瞭に残っています。目を凝らせば山側にも良好な遺構が点々と残っています。小田原城の見どころのひとつとなっている小峰大堀切の周辺にも、総構の遺構は存在します。慣れない人にとって最初はただの帯状の畑にしか見えない地形が、慣れてくれるともうどう見ても堀にしか見えなくなるから不思議でもあり、楽しくもあります。


2.近世小田原城

(1)歴史概観
小田原の役の後、小田原城には徳川家康股肱の臣・大久保忠世が入ることとなりました。その子・忠隣のときにいわゆる大久保長安事件が起き、慶長19(1614)年、大久保氏はいったん小田原城を去ります。その後暫く実質的な城主不在の時期が続きますが、寛永9(1632)年に稲葉正勝が8万5千石をもって小田原藩主となるに至り、小田原城は近世城郭へと大きく脱皮することとなりました。
寛永11(1634)年から公儀普請をもって始められた小田原城の改修工事はかなり本格的なもので、現在の小田原城の縄張りはほぼ全てがこの稲葉氏の修築によるものと考えられています。「春日局の子」という稲葉正勝の権勢もさることながら、関東の入り口に当たる小田原の軍事的な位置づけが再認識されたという側面もあるのでしょう。ちなみに稲葉氏による改装前の小田原城には、大手に「丸馬出」が存在したという驚愕の事実があります。角馬出を至上とする後北条氏の本城の大手に丸馬出を作るという暴挙(笑)は、恐らくは大久保氏の普請によるものです。後北条氏へのあてつけなのでしょうか。
寛永20(1643)年には天守の新築も許可されています。そもそも城郭自体が無用の長物になりかけていた頃に許可された天守ですから、このあたりからも小田原城の「特別」感を窺い知ることができます。その後、天守は元禄15(1702)年の地震で焼け落ち、天明2(1782)年の地震で傾き、明治3(1870)年には解体され、大正12(1923)年の関東大震災では天守台の石垣まで崩落します。更に関東大震災では小田原城のほぼすべての石垣が崩落しています。本丸常盤木門の石垣は綺麗に積まれていますが、あのあたりも関東大震災では崩落しています。二の丸に建つ平櫓(隅櫓)は昭和9(1934)年に再建されたもの(戦前建築!)ですが、石垣の高さが半分となり、バランスの関係で平櫓のサイズも半分なのだとか。
話を小田原城の歴史に戻します。稲葉氏が越後高田藩に移った後、小田原藩主となったのは大久保忠朝でした。忠朝は先に小田原藩を召上げられた忠隣の孫にあたる人物で、大久保氏としては実に72年ぶりとなる奇跡のカムバックです。しかも忠朝は10万3千石。4万石だった曽祖父・忠世、6万5千石だった祖父・忠隣を遥かに上回る大物になって帰ってきたことになります。大久保氏はそのまま小田原藩主として明治までその血脈を伝えますが、明治維新を迎えたところで廃藩置県(明治4(1871)年)を待たずにさっさと小田原城を返上したため、前述の通り明治3年には天守が解体されることとなりました。なお、この時解体された天守は宝永年間に再建されたもので、この再建に際しては現在の外観と概ね同じ三重四階の天守の他に、五重五階の巨大天守も計画されたようです。確かに今の天守も、三重天守としては異様に大きいような気がします。

(2)御用米曲輪
本丸の北側に野球場くらいの面積を持つ広大な曲輪があります。「御用米曲輪」と呼ばれたこの曲輪は、その名の通り幕府の米蔵が置かれた場所ですが、私が初めて小田原城を訪ねた時、ここには野球場があったような記憶があります。更に私の記憶が確かならばこの曲輪は駅前駐車場だった時期もあり、花見シーズンともなれば駐車場待ちの車が城外に列をなしていたものでした。
さすがに小田原市もそれではいけないと思い直したのでしょう。小田原城の復元整備計画の一環として、御用米曲輪の本格調査が始まります。まずは史実通りに徳川幕府の御用米蔵を検出することから始まり、三つ葉葵の紋が入った大量の瓦や、まるごと地中に埋もれた瓦塀なども検出されました。もし塀の一部でも現存建造物と呼ぶことを許されるのであれば、この瓦塀は小田原城にとって唯一の現存建造物です。
これで調査は終わったかと思ったら、米蔵の更に下、戦国時代に遡る土層から、導水施設や大きな池を伴う庭園が顔を出したのです。池の護岸には五輪塔を転用した石材が多数使われていましたが、違う色の石をわざわざ運び込んで混入させるといったような形跡もあり、手間暇を惜しまないお洒落な庭園だったことがわかってきました。導水遺構や石畳なども、むしろヨーロッパの庭園を見ているかのような幾何学模様に満ちていて、武家の庭園そのものに対する見方を変える必要があるかもしれません。
この庭園は後北条氏が八幡山ではなく天守周辺にも本格的な居館を構えていたことの傍証と考えられ、先に述べた「氏直本陣」の存在をも裏付ける可能性がある大発見であることは間違いありません。ただ、庭園とワンセットで存在したはずの御殿や会所といった殿舎群は見つかっておらず、庭園だけをもって「後北条氏は八幡山ではなく天守周辺の本拠を構えていた」と結論付けるにはまだ早いのかな、と思っています。現在、御用米曲輪は埋め戻され、非公開となっていますが、近い将来何らかの形で復元整備され、公開されるとのことですので、その日が来るのを楽しみに待ちたいと思います。

(3)町中に残る近世小田原城
近世小田原城は関東大震災や都市開発等によって、本丸、二の丸以外の遺構が全て失われたかのように錯覚している方も多いようですが、総構と同様、町中にも遺構を見つけることができます。
例えば大手門。横浜地方裁判所の北側道路に鐘楼の乗った石垣がありますが、これが大手門を固めていた石垣です。残念ながら片側しか残っていませんが、れっきとしたお城の遺構です。小田原郵便局の南側には、近世小田原城の三の丸石垣が、周囲の建築物などに押し潰されそうになりながらも残っています。遊歩道になっていますので、ここも必見と言えるでしょう。三の丸石垣は三の丸小学校の南側でも見ることができ、箱根口門の跡を見ることもできます。

(4)小田原城の復元
小田原城は前述の平櫓や昭和35(1960)年に復元された現在の天守のほか、昭和46(1971)年には本丸常盤木門、平成元(1989)年には住吉橋、平成9(1997)年には銅門、平成21(2009)年には馬出門とそれぞれ復元されました。耐用年数を迎えた天守についても木造で復元しようか・・・という動きもあったようですが、予算などの都合がつかず、平成28(2016)年5月に耐震工事が施されるに留まりました。
御用米曲輪の外側に広がる弁天曲輪のあたりも用地買収が進んでおり、いずれは大々的な復元活動が進められることでしょう。金沢城や熊本城の大々的な復元運動に比べればいささか地味ではありますが(熊本城の復元は地震で頓挫してしまいましたが)、小田原城もまた着実に昔日の姿を取り戻しつつあります。

ふたつのお城が楽しめる小田原城。ぜひ、まる一日かけてじっくりと嘗め回して頂きたいと思います。

参考資料:
「戦国最大の城郭 小田原城」、「よみがえる小田原城」、「関東の名城を歩く(南関東編)」ほか







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