「高天神を制するものは遠州を制す」

〜高天神城の付城と高天神城を歩くオフの添え物として〜

初稿公開日:2015.5.16

1.高天神城攻防戦のおさらい
(1)武田氏が徳川氏の高天神城を攻撃していた時代
最初に記しておきます。高天神城と徳川家康の本城・浜松城の直線距離は、30kmも離れていません。まずはこの事実をしっかり頭に置きながら、話を進めていきたいと思います。
武田氏と徳川氏との間で最初に高天神城を巡る攻防戦が展開されたのは、元亀2(1571)年または同3年のこととされています。定説は元亀2年なのですが、その翌年にかの有名な三方ヶ原の合戦が勃発していることから、果たして武田信玄が2年連続で遠州に2万もの軍勢を送り込んだのか、という疑問が生じます。そもそも武田氏の遠州侵攻は元亀2年に甲相同盟が成立して初めて成り立つべきものなので、元亀3年の三方ヶ原の合戦直前に信玄勢が高天神城を攻めたと考えるのが妥当でしょう。いずれにしてもこの時は城将・小笠原長忠も大軍を前によく持ちこたえ、堅城・高天神城の名を一躍高めることとなりました。
天正2(1574)年、今度は武田勝頼が高天神城に猛攻を仕掛けますが、この時はたまらず開城しました。この時家中は武田氏に降るとするものと徳川氏への忠誠を誓うものとに二分され、それぞれ「東退組」と「西退組」とに分かれて整然と退城したという逸話があります。この退却、攻め手である武田氏の眼前で穏便に実行されたことになりますね。武者の魂を理解する時代の出来事と言えるでしょうか。なお、織田信長は高天神城救援のため高天神城の50kmほど西にある浜名湖の手前まで来ていましたが、高天神城陥落の知らせを受けて「あれまあ」とばかりに浜松城にも立ち寄らず、くるりと反転して帰路に着きます。間に合わなかったお詫びに黄金二袋を残して。いかにも信長らしい、あっさりとした逸話です。
ところで、徳川家康と言えば、桶狭間の戦いで今川氏が滅亡した後は着々と三河・遠江を傘下に収めた印象がありませんか?ついでに言うと、武田信玄は三方ヶ原の戦いのすぐ後に死んでしまったことで、武田氏自体が遠州から撤退しまったような印象がありませんか?現実は全くその逆で、武田氏が高天神城を陥落させたということは、武田氏の勢力は徳川家康の本城からわずか30km先まで迫っていたということになります。世の中ではとっくに浅井・朝倉が滅び、足利将軍すら消滅した、その時代の出来事です。一過性の三方ヶ原とは比べ物にならない大きなプレッシャーが、壮年時代の家康を「むぎゅー」と押しつぶしていたことでしょう。武田氏に高天神城を奪われた状態は、ここから7年にも及びます。

(2)徳川氏が武田氏の高天神城を攻撃していた時代
徳川家康は高天神城の堅固さを一番よく知っていた人物でしょう。性急な奪還は犠牲が大きいとの判断から、何年もかけて「付城作戦」を展開します。最初は高天神城の10kmほど西にあった馬伏塚城を修築し大須賀康高を入れて前線基地とし、天正6(1578)年には高天神城から5kmの地点で横須賀城の築城に成功します。これにより高天神城は喉元に棘が刺さったような形になったと言われ、築城をみすみす許したことは武田勝頼の失策のひとつとして数えられています。ちなみにその頃勝頼は、御館の乱を収束させるため越後に赴き、直江兼続からたんまり黄金を貰っていました。
天正7(1579)年には三井山砦、中村砦、小笠原山砦を整備し、翌年には獅子ヶ鼻砦、火ヶ峰砦、能ヶ坂砦を新たに築き、「三河物語」や「遠州高天神記」にいう「六砦」が揃います。六砦の中で最も高天神城に誓い火ヶ峰砦は、直線距離にして約3km。ずいぶん近づいたものです。実際の付城はもう少し多かったらしく、「横須賀根元歴代名鑑」では「八ヶ所」となっていますし、「家忠日記」では天正8(1580)年になっても「高天神城きわニ陣をよせ候」(十月廿二日)とか「萩原普請候」「堀普請候」といった記述が沢山出てきます。徳川方が着々と高天神城に近づき、続々と付城を築いたことが窺えます。萩原は高天神城の西側の山続にある萩原峠近辺のことでしょうけれども、「高天神城きわ」はどこなのでしょう。
天正9(1581)年3月22日、高天神城はいよいよ最期の時を迎えます。勝頼の援軍も見込めない中、城将・岡部元信は城から討って出て、700名ほどの仲間とともに討ち取られました。この時徳川方は、再三に亘る降伏の申し出を却下していたそうです。背後には織田信長の命令もあったようで、「勝頼が後詰めに来ないから落城した」ということを最大限にアピールする狙いがあったと言われています。事実、高天神城陥落を機に勝頼の権威は失墜し、勝頼が天目山の露と消えるまで、1年もかかりませんでした。

2.高天神城の主な付城
高天神城の付城は「六」とも「八」ともいい、「静岡県の中世城館跡」では無数の城郭が存在する可能性すら指摘されました。その後の調査で、高天神城の周辺に散在する削平地の多くは昭和になって畑地として開発されたものであることがわかりましたが、それでも今なお未発見の付城遺構が眠っている可能性があります。ちなみに「六城」の現状ですが、公園化等によりある程度散策が可能な小笠山、獅子ヶ鼻、三井山に対し、中村は竹藪に覆われ、火ヶ峰、熊ヶ坂に至っては深い藪にすっぽりと包まれているのだとか。ここでは、今回のオフ会で巡る(あるいは眺める)砦に限り、簡単に辿ってみましょう。

(1)小笠山砦
「六砦」の中で最初に使用され、最も大きく、かつ最も明瞭に遺構が残る砦です。この砦はここまでの話の更に一時代前となる永禄11(1568)年に、徳川家康が今川氏のものであった高天神城と掛川城との連絡を絶つために築いたのが最初で、後になって付城として再利用したものです。
砦は小笠神社の背後、笹ヶ峰御殿と呼ばれる主郭の東西に広がっており、東西ともに尾根に食い込む竪堀によって通路を仕切られ、東虎口から入ると尾根の南北両側に横堀が掘られています。明らかに他の砦と異なった築城プランを持っていることから、この砦に限って徳川氏とは別の使用者が存在したことを考えてもよさそうです。私が探した限り、武田勝頼がこの砦を利用したことを示す資料は見当たりませんが、勝頼が高天神城を奪取する際にも付城として使われた可能性を考えてもよいのではないでしょうか。

(2)獅子ヶ鼻砦
平野部に突き出した台地の上に、幾筋かの堀切と段曲輪が築かれています。台地の下はかつて沼沢地で、舟運の便が図れる場所だったのだとか。昔は台地の先端部分に明瞭な堀切が残っていたそうですが、残念ながら台地ごと削り取られてしまいました。この砦の特徴は、西にある高天神城に向かって大きな曲輪を配しながら、東に向かっても十分な配慮がなされていることです。獅子ヶ鼻砦が築かれた頃にはまだ武田勝頼が援軍を率いて東から現れる可能性があり、このような曲輪配置になったものと推測されています。

(3)三井山砦
山頂に三つの井戸があったことから三井山と呼ばれていたのだそうです。六砦の中では比較的大きな曲輪を持つこの砦は、一時期徳川家康の本陣であったこともあったようです。「大浜公園」として開放されたエリアのすぐ東側の畑地が砦のあったところで、かつて堀切だったところが堀底道として使われており、公園と砦とを繋ぐ遊歩道の橋がかかっています。この堀切が最大の見どころで、現在はいくつかの削平地が残るだけですが、かつてはもう少し明瞭な堀がそこここに見られたようです。

(4)新発見の砦
平成26年の末、静岡古城研究会による高天神城周辺の「悉皆踏査」によって、新たに砦らしき遺構が2ヶ所、発見されました。この砦は同研究会によってそれぞれ「長谷砦」「茂平地砦」と名付けられています。平成27年に開催された見学会に参加して確認したところ、場所は高天神城の大手口(南側)の真正面で、高天神城からはわずか300m。これこそ「高天神城きわ」に相応しい場所ではないか、というのが、同研究会の見解です。長谷砦は二重の竪堀のみが明瞭に残りますが、これが本当に城郭遺構であるとするならば、隣接する茂平地砦などとも密接に連携し、ひとつの「城」として機能していたのかもしれません。茂平地砦はこれまで未発見であったことが信じられないくらい、明瞭な切岸を山頂に残しています。また、高天神城に面した支尾根との間にはごくごく小さいながらも堀切を有し、支尾根の先端にはこれまたごくごく浅い横堀が見られます。これら一連の遺構をまとめて自然地形だと考える方が難しく、城があったことはほぼ確実でしょう。大声で叫べば確実に声が届きそうな場所に付城を築かれた籠城兵たちの心中はどんなものだったのでしょうか。

3.高天神城
最後に、本城・高天神城について。高天神城がいつ頃から存在したのかを示す資料は存在しませんが、一連の高天神城攻防戦より前の永正10(1513)年、今川氏の重臣・福島(くしま)正成が入城していたことが知られています。正成は今川軍の総大将として甲州侵攻を行い、武田信虎をあと一歩のところまで追い詰めますが、すんでのところで逆転負けを喫し、戦死してしまう可哀想な武将です。この正成の遺児が後北条氏に拾われ、後に地黄八幡の異名を持つ猛将・北条綱成に成長したのだとか。
高天神城は、平面で見ると「h」型をした山に立地しており、どこから攻めようとしても常に二方向から睨まれる地形を持った、天険の要害です。大手は南に開かれており、大手から入るとまずは東峰の諸曲輪に取り付きます。東峰は最高所の本城(現在「本丸」とされている場所)を中心に元高天神社や御前曲輪(記念写真が撮れる場所)があって、一番東に「三の丸」と呼ばれる曲輪があります。その周囲には腰曲輪と堀切がありますが、東の堀切は現在藪の中で見ることができません。「本丸」の西端には虎口があって、そこから鞍部に下り、「かな井戸」と呼ばれる大きな井戸を経由して西峰へと登っていくのが順路です。本丸の北側に開口していた「大河内政局石窟」を見るのがかつての定番見学コースだったのですが、石窟崩落の危険があるということで、いつの間にか石窟には土嚢が詰められてしまいました。大河内政局は徳川方の軍目付でしたが、小笠原長忠が武田方に降った際に捕えられ、徳川氏が高天神城を奪回するまでの7年間、閉じ込められていたとの伝説を持つ人物です。かの黒田官兵衛が伊丹城に幽閉された期間が概ね1年であったことからも。政局が閉じ込められていた7年間というのは、途方もない長さです。
西峰の最高所には現在の高天神社が建ちますが、こちらはほぼ真四角の曲輪に土塁が囲み、東峰より一段と堅固な印象があります。周囲を断ち切る堀切もいちいち大きく深く、西に向けて強力に防御を固めた様子が窺えます。このあたりは武田方が徳川方に備えて強化した部分と考えて間違いないでしょう。高天神社の社務所を過ぎたところにある二つの堀切、犬戻り・猿戻りの手前にある堀切虎口など、見どころが続きます。ちなみに犬戻り・猿戻りは徳川氏による高天神城奪還戦で、いよいよ落城が迫る中、武田勝頼に高天神城の最期を伝えるために単身脱出した横田尹松が通った場所と言われていますが、こんなところを灯火もなく、闇夜によく通り抜けたものだと思います。
高天神社の北側に「二の丸」があります。「二の丸」の背後にある横堀からは「畝」が見つかりました。武田・徳川系のお城で畝堀が見つかるのは極めて珍しいことなのだとか。
「二の丸」から先が、このお城で最高の見どころとなる「堂の尾曲輪」と横堀です。外側に土塁を伴う一直線の横堀は、丸子城(静岡県)にも全く同じといってよいものが残り、武田・徳川系の築城法の白眉とも呼ぶべき遺構です。この横堀の先には二重の竪堀が穿たれており、岡部元信以下の城兵たちは、ここから最後の出撃をしたと伝えられています。なお、二の丸と堂の尾曲輪との間は堀切で断ち切られていますが、ここには木橋があったことが発掘調査で明らかになっています。
「かな井戸」から北側には搦め手道が開いています。途中には「三日月池」と呼ばれる小さな池がありますが、これは高天神城当時から水を湛えていたとのこと。現在は金魚が泳いでいますが、さすがにこの金魚は後世に持ち込まれたものですので、あしからず。

4.むすびにかえて
最後に、個人的な見解をひとつ。制すれば遠州を制すると言われた高天神城が、横須賀城の築城によってなぜ打撃を受けたのか。現在の地形だけ見ていてもこの答はでないのですが、高天神城の周辺がかつて沼沢地であったということ、更に横須賀城の前面も海に面していたことが、この謎を解く鍵になっているような気がします。横須賀城ができたことで、徳川方は大量の兵力を水運により容易に投入できるようになったと同時に、兵糧等を運び込むための水路の封鎖にも成功したのではないか、との見方です。この見方を成立させるには、ただでさえ波の荒い遠州灘を果たして兵が移動したのか否かとか、そもそも各種の記録に船を使ったとの記述が見られないなど、反論の余地は沢山あるのですが、高天神城と横須賀城の立地を見るにつけ、そうした空想を抱かずにはいられません。そういった自由な発想を持つこともまた、お城をやる上では大切なことだと思うのです。

参考資料
「静岡の山城ベスト50を歩く」、「家康の高天神城攻めと新付城」、「静岡県の中世城館跡」ほか









inserted by FC2 system