「皆川城&西方城+二条城≠皆川広照&藤田信吉+西方氏」

〜皆川&西方オフの添え物として〜

初稿公開日:2015.3.5

人で語れば皆川広照と藤田信吉、城で語れば皆川城と西方城。この二組が対になっていればすっきりするのに、皆川城=皆川広照はよいとしても藤田信吉の居城は西方城ではなく二条城(西方陣屋)。西方城を語るには西方氏を語ることになるわけで、「語りたい人物」と「見せたいお城」が一致しないという、妙な「ねじれ」現象が起きてしまうのです。そんなわけで本稿は「皆川広照と皆川城」、「藤田信吉と二条城」、「西方氏と西方城」の三部構成とし、西方氏についても触れてみることにします。

1.皆川広照と皆川城
(1)皆川広照
皆川氏は下野の名族・小山氏と同族です。鎌倉時代初めに活躍した小山政光の息子の朝政・宗政・朝光がそれぞれ小山・長沼・結城氏に分かれてゆくのですが、長沼氏の嫡流が氏秀の代に皆川に土着し、その息子の宗成が皆川を名乗ったのだそうです。宗成のひ孫が今回の主人公・皆川広照(1548〜1627)です。
広照は兄・広勝の死によって天正4(1576)年に家督を継ぎ、基本的には宇都宮氏の下で頑張りますが、天正9(1581)年には織田信長に馬を送るなど、宇都宮氏とは無関係に大胆な外交政策を展開しています。当時の皆川氏は宇都宮氏と後北条氏との間に挟まれて、隣の壬生氏ともども微妙な立場にあったようで、勝手な想像ですが「誰でもいいから早く中央政権が関東をなんとかしてくれ」と思っていたことでしょう。
そんな広照も天正14(1585)年には後北条氏に屈し、5年後の小田原の役では小田原城に籠ります・・・が、さっさと単独降伏します。豊臣秀吉が毛利家に送った「北条家人数覚書」には、「皆川山城守 皆川城 とミた とちぎ城 なんま 四ヶ所 千騎 此皆川山城守ハ、先日此方へ走入申候」と記されていて、「さっさと」寝返った様子が窺えます。そんなわけで皆川3万5千石も安堵されたのですが、皆川城自体な手違いなのか何なのか、とっとと攻め落とされてしまうというのが不運なところ。なお、覚書にある「とミた」は栃木市の富田城で栃木城とともに皆川氏の勢力下ですが、「なんま」は南摩城(鹿沼市)で、皆川からは相当に離れています。何らかの事情で皆川氏と行動を共にした武将が南摩にいたのかもしれません。
広照は徳川家康の六男・松平忠輝の「拾い親」となり、やがて越後高田75万石の太守となった忠輝の与力大名として信濃飯山4万石へと栄転します。しかし、忠輝のあまりのわがまま坊主ぶりに手を焼いて徳川幕府に訴え、逆に広照が改易の憂き目を見ます。でもそれから実に14年もの雌伏を経て、元和9(1623)年には常陸府中1万石の大名に返り咲くのです。このしぶとさ、見事としか言いようがありません。
ちなみに広照の事績を側面的に確認しようと隆慶一郎「捨て童子 松平忠輝」を読破したのですが、広照はめっちゃ小者扱いでした。忠輝が主人公なのだからそりゃそうなんでしょうけれども。

(2)皆川城
皆川城がいつ頃築かれたのかははっきりしませんが、終始一貫して皆川氏の本拠地であったことは間違いありません。城下には「宿」や「町屋」の字があり、関所跡も残るのだとか。そうだとすれば戦国の世にあっていわゆる「城下町」を意識した皆川城の占地はなかなか先進的であったと言えるでしょう。
お城はかつて「法螺貝城」とも呼ばれました。その由来は一目瞭然。現地に立ってお城を見上げれば、なるほどこれは確かに大きな法螺貝。法螺貝に見えるその秘密は広大かつ幾重にも重なる、帯曲輪の存在。帯曲輪を分断する幾筋かの竪堀の存在も、法螺貝らしさを醸し出すのに一役買っていると言えるでしょう。
最高所の本丸からは建物跡も発掘されているそうですが、居住性の高そうなのはむしろ本丸の西側にある広大な曲輪。そのすぐ下には井戸もあります。ただ皆川氏は普段から山の上ではなく麓の居館に住んでいたようなので、山の上にどれほどの居住性を求めたのかはわかりません。
木がないせいで縦堀と帯曲輪が目立つ皆川城ですが、目を見張るのはむしろ木々に隠れた側です。本丸と西の丸の間を北に向かうと針葉樹林の中に「わー山城だ」と言いたくなるような見事な土塁と堀切が残っていますし、お城の北側も基本的には「法螺貝」です。適度な折れと分岐を伴いながら山麓を巡る横堀は、その外側の土塁とともにこのお城の必見ポイントとなっていますし、麓の居館もほぼ完存です。

2.藤田信吉と二条城
(1)藤田信吉
藤田氏は武蔵七党の猪俣氏の出で、鉢形城の近くの藤田という場所に土着し藤田を名乗ったのが始まりです。山内上杉氏の有力被官として長尾氏と並び称されるに至りますが、後北条氏の圧力に押され、北条氏邦を養子に貰うことで後北条氏に「吸収合併」されてしまいます。割を食ったのが、本来の藤田一族。一代の俊英・藤田信吉の波乱の生涯はまさにここから始まります。
まず天正8(1580)年には後北条氏から武田氏に鞍替えし、天正10(1582)年の武田氏滅亡後にいったん滝川氏の配下となりますが、同年の本能寺の変の後には上杉氏に属し、直江兼続の次の次くらいの地位にまで上り詰めます。ところが慶長5(1600)年には「上杉に謀反の兆しあり」と徳川氏に訴えて関ヶ原の戦いのきっかけを作り、その「功」によって同年9月、1万5千石の独立大名となって西方の地にやってきたわけです。ちなみに信吉は慶長20(1615)年の大坂冬の陣で榊原康政の子・康勝の軍監ながら戦機を逸する大失態を犯し、それからほどなく信州・奈良井の里で死没します。死因は大阪の陣の戦傷とも、はたまた自殺とも伝えられます。哀れ。
藤田信吉が、これだけ主人を変えながら武田氏にも上杉氏にも徳川氏にも結構優遇されたのには理由があるようです。信吉の妻は武田信玄の次男・海野竜芳の娘。つまり信吉は藤田家の養子・北条氏邦と義兄弟であるだけでなく、武田勝頼の義理の甥でもあり、更には武田信玄の娘・菊姫を妻に持つ上杉景勝にとっても義理の甥だったのです。徳川家康も武田贔屓でしたから、実は1万5千石のうち2千石は信吉の妻の「化粧料」だったとか。変転を重ねる信吉にぴったりと寄り添って一生を終えた信吉の妻、信吉にとっては何物にも代えがたい宝物だったことでしょう。
西方藩は藤田信吉一代限り、ほんの10年ほどしか存続していなかった藩ですが、現在の西方は信吉が作ったといっても過言ではありません。そもそも西方の水田は近隣の恩川にある小倉堰から取水していますが、この堰は信吉が作りました。他にも信吉の開基になる寺社がいくつも存在します。旧・西方町の観光ガイドマップにはそこかしこに「これは藤田能登守によって・・・」と記されるなど、「信吉愛」に溢れる作りになっていましたが、栃木市となってからはそのガイドマップも消滅してしまったようです。

(2)二条城
西方に着任した藤田信吉は、屈指の技巧派城郭・西方城を眼前にしながら、その中腹に小さな陣屋(西方陣屋=二条城)を新築します。現在、本丸は強烈な薮となって侵入を阻んでいますが、本丸周囲の切岸とその手前の土塁はなかなかのもの。往時は恐らく手前の土塁を登って、橋を渡って本丸に入っていたことでしょう。本丸の両サイドは櫓台状になっており、本当に櫓が立っていたとすればなかなか壮観なので、ここは妄想力120%で見上げて欲しい場所です。なお、木の葉の下に垣間見える石垣が本格的なものであれば、「関ヶ原後」に築かれた関東の城郭で石垣が用いられた稀有な例、ということになります。

3.西方氏と西方城
(1)西方氏
最後に西方氏と西方城について少々。そもそも西方はどこに対して「西方」なのか。その答は、下野の名門・宇都宮氏の勢力からみた「西方」なのです。西方氏は下野の守護にして国司もあった宇都宮氏一族ですが、実は京都で暮らしていた人々だったようです。戦国時代になって遅ればせながら下野に下向して、宇都宮氏本家からその支配地の端っこを貰った・・・というのが西方氏の立場のようです。
永禄12(1569)年に上杉謙信と北条氏政との間で「越相同盟」が締結されますが、その条文に「西方氏は宇都宮氏の飛び地なので上杉・北条どっちの扱いにするか慎重に決めるべし」みたいな一節が刻まれています。それくらい西方は孤立した、特殊な場所だったのでしょう。ちなみに西方は今でこそ栃木市となっていますが、いわゆる平成の大合併で新・栃木市が誕生した平成22年ではなく翌23年にひっそりと合併しています。西方は、現代の世にあっても若干孤立した場所のように見えるのは気のせいでしょうか。
西方氏は宇都宮氏とともに、天正18(1590)年の小田原の役で豊臣方につきます。本来であれば西方の地で本領安堵・・・となるはずでしたが、ここでも西方がいわゆる「飛び地」であることが災いし、小田原の役の後の領地再編で西方の地は結城氏のものとなり、西方氏は宇都宮の東側、赤羽(現在の芳賀郡一貝町赤羽)へと移転させられるのでした。西方氏、どこまでも日蔭の存在です。

(2)西方城
西方城の立ち位置を考えるとき、先に述べた西方の孤立性を考えないわけにはいきません。西方の周囲には壬生、皆川といった「どんぐりの背比べ」的な武将がひしめいていて、その背後には後北条氏の勢力がひたひた。そのくせ主と仰ぐ宇都宮氏の勢力とは地続きでもなく・・・その孤立感たるや半端なものではなかったことが容易に推察されます。現在残る西方城の技巧に富んだ縄張りは、こうした環境下にあった西方氏の切羽詰まった情勢と無関係であったはずはない、と考えるのは私だけでしょうか。
西方城の縄張りは、平面図だけで見れば比企の杉山城によく似ています。イメージとしては「粘土で作った杉山城を上からちょっと押しつぶしたような感じ」とでも言いましょうか。杉山城より堀は浅く、土塁も低いような気はしますが、虎口への工夫や横堀の利用など、プラン自体は実によく似ているな、と。話は脱線しますが、西方城が「孤立無援に近い」西方氏の城として特定できるのであれば、西方城は縄張学的に何かの系譜を継いだわけではなく、ごく自然な防御思想のものに縄張りされたということになります。縄張り学的には「杉山城論争」があまりにも有名ですが、西方城みたいなお城を見ると「お城って、案外普遍的に(体系的ではなく)発達したんじゃないかな」と考えてしまいます。
さて、西方城への登山ルートを辿ると、最初に「竪堀通路」へと導かれます。途中に折れを伴うこの堀底道は、西方城を特徴付ける技巧の一つです。馬出しを右に見て、堀切を過ぎて左に折れて主郭群へと入ります。縄張図によって曲輪の名称は変わりますが、ここから五つの曲輪が東西に並び、その五つ目が本丸です。本丸に至る通路は枡形あり堀切ありで変化に富んでいて、充実した案内板を読みながら「ふーむなるほど」と唸ってしまいます。本丸には、大きな石の並んだ場所があって、見たところ庭園があったように見受けられます。戦国城郭の庭園にはまだほとんど注目が集まっていませんが、庭園があるということはそこに居住施設があったということで、西方氏がこの本丸に「居住」していたことを示す貴重な材料です。庭園跡にはもっと注目してよいでしょう。
本丸西側の二重枡形虎口から、石垣で組まれた区画を持つ井戸曲輪を経て東の丸へと向かうあたりが、馬出しやら枡形やら、最も技巧に富んだ場所となっています。なお、縄張図では横堀も示されていますが、残念ながら現在の整備状況では横堀を明瞭に観察することはできません。あと一回り外側まで藪を払えば今より更にすごいお城に見えるのかも。
なお、下見の後、栃木県立文書館所蔵の「西方城絵図」と見比べてみました。この絵図、とってもよく西方城の特徴を捉えているのですが、この絵図には本丸の北側にも他の三方と同じような曲輪が記されています。このお城は本丸を中心に、似たような規格の曲輪を四方に配した重厚なお城だったんですね。残念ながらこの北側エリアは、その後の開発で潰滅してしまったようです。

4.むすびにかえて
むすびにかえて、皆川広照と藤田信吉という二人の武将につき、改めて一言。越後高田75万石の松平忠輝に楯突いた広照と、会津120万石の上杉景勝に楯突いた信吉。この二人、ある意味とってもよく似ています。生きるか死ぬかの時代にあって己の信じた道を真っ直ぐに突き進み、生き抜いた、広照と信吉。この二人、実は稀にみる才能の持ち主だったのかもしれませんね。
皆川城と西方城は、ともに見どころ満載です。技巧的な縄張りを持つ西方城は、もっともっと脚光を浴びてよいお城でしょう。幸い、地元の方に大事にされ、看板などの整備が進んできているのは朗報です。ストーリーの展開上、西方陣屋(二条城)がおまけみたいな扱いになってしまいましたが、このお城も妄想力を爆発させれば案外面白いお城です。
異彩を放つ二人の武将に思いを馳せながら、ゆっくり現地を歩けるとよいな、と思います。

参考資料
「関東の名城を歩く 北関東編」、「小田原衆所領役帳(戦国遺文後北条氏編別冊)」、「藤田能登守信吉」、「越相同盟と下野国西方氏」ほか








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