「唐沢山城〜忘れ去られた高石垣の城」

〜唐沢山城国史跡指定記念ミニオフの添え物として〜

初稿公開日:2014.1.5

「石垣のお城はない」と片づけられる関東にあって、唐沢山城は高石垣を持つ唯一の「石垣の城」です。
関ヶ原の戦い直後の1602年に廃城となったにも関わらず破却を免れた点も特異でしょう。
2013年に国史跡の指定を受けたことを記念して、このお城の特徴と特異性について思うところを語ってみます。


1.歴史背景
(1)佐野盛綱から昌綱・宗綱の時代(1491〜1585年)

佐野氏は伝説の武人・俵藤太こと藤原秀郷を祖とし、最後の佐野藩主であった佐野信吉まで延々19代を数える名族です。俵藤太の築城によるという伝説の真偽はさておき、唐沢山城は築城以来、一貫して佐野氏のお城であり続けました。現実的な創築年代としては延徳3(1491)年、佐野盛綱(11代目)の時代と考えるのが妥当なようです。なんでも「唐沢山神社創建誌乾」なる書物によれば、明治22年に「延徳4年」銘の石が掘り出されたのだとか。

関東全域に後北条氏の勢力が及ぼうとしていた頃、関東平野の辺縁部に位置する佐野氏はいわゆる境目領主の一人として、大変な苦労を強いられることとなります。佐野昌綱(15代目)が家督を継いだ永禄2(1559)年以降、唐沢山城は上杉謙信の味方になったり北条氏康・氏政の味方になったりしながら、その度に上杉氏やら後北条氏やらに攻められたり守られたりして、都合10回ほどの戦いを経験しています。真偽不明ながら歴史上の名場面として語られる「上杉謙信一騎駆け入城伝説」は、永禄3年に唐沢山城が北条氏政の大軍(3万とも)に囲まれた際に生まれたもので、謙信は実際に8千の兵力で唐沢山城の救援に成功しています。これだけ大掛かりに助けてもらっても、佐野昌綱は頻繁に謙信を裏切るんですね。

上杉氏の支援を受けているほんのわずかな間、唐沢山城には目付役として謙信の股肱の臣・色部勝長が入ったりしています。唐沢山城の北側に残る竪堀群は色部勝長の居城・平林城(新潟県)に類似しており、唐沢山城には上杉氏の築城法も取り込まれていると考えられている・・・のだそうです。

昌綱は天正2(1574)年に死去しますが、墓石では天正7年没となっています。これは謙信の死(天正6年)後1年長く生きたことにして欲しい、という昌綱の遺言によるものだとか。昌綱、どこまで謙信にライバル心を抱いていたのでしょうか。助けてもらったこともあるくせに。昌綱の死後家督を継いだ佐野宗綱(16代目)は勇猛果敢な若者でしたが、勇猛さがたたって天正13(1585)年に戦死します。まだ25歳で、豊臣秀吉による小田原の役まであと5年というところでした。

(2)佐野氏忠の時代(1585〜1590年)

宗綱を失った佐野氏は迷走します。了伯は秀吉と相談の上、佐竹氏からの養子縁組を模索していたようですが、了伯の運動を無視する形で北条氏康の六男・氏忠を養子に迎えます。行き場を失った了伯は秀吉のもとに身を寄せ、再起の時を窺うこととなりました。これだけ見れば後北条氏の強引さが目立ちますが、養子に入った佐野氏忠(17代目)は地域振興に粉骨砕身し、評判も上々だったようです。唐沢山城は氏忠の時代に修築されたと言われ、結果として唐沢山城には上杉氏に続き、後北条氏のエッセンスが盛り込まれました。主郭以外の石垣や尾根最先端にある堀切などには後北条の香りが漂います。

しかし氏忠の時代は長く続かず、天正18(1590)年には小田原の役により高野山に追放され、文禄2(1593)年には早くも死去します。高野山に追放された他の後北条一族も早々に死去していますから、小田原の役というのは後北条氏にとってものすごく燃え尽き感の強いものだったのでしょう。

(3)佐野房綱・信吉の時代(1590〜1602年)

小田原の役で後北条方についた国人クラスの領主は潰されて当然なのですが、佐野氏はここでウルトラCの大逆転を演じます。天徳寺了伯の再登場です。了伯は秀吉の許しを得て、佐野房綱(18代目)を名乗って2年限りで家督を継ぎ、秀吉の臣であった富田一白の子・信種を養子として家督を譲りました。富田一白は問責役や条件交渉等の折衝に当たる外交官で関東情勢にも詳しく、養子を貰うには適切な相手と判断したのでしょう。信種は佐野信吉(19代目)として家督を継ぎます。
なお、お隣の結城氏は同じ頃に豊臣秀吉の養子(徳川家康の次男)である秀康を養子に貰っています。没落する佐野氏を尻目に、結城氏は越前松平氏に姿を変えて徳川の世を脈々と渡っていくのですから、何とも難しいものです。秀吉から見れば関東に豊臣の息がかかった人物を送り込めればよく、結城秀康と佐野信吉ではなく、佐野秀康と結城信吉という組み合わせでも全然問題なかったように思えますので。

信吉は慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いも東軍に属し、無難に乗り切ります。佐野藩主として順風満帆に見えたその矢先、慶長の大火疑惑(江戸の大火を唐沢山城で発見した信吉がいち早く江戸に駆けつけ、徳川家康から「お前の城は江戸が見えすぎ」といいがかりをつけられたというもの)とも山城禁止令に触れたものとも言われますが、慶長7(1602)年に唐沢山城の廃城と、佐野春日岡(佐野城)への移転を命じられます。ここでちょっと疑問が生じますが、それは後項に譲ることとして・・・
更にそれから12年後の慶長19(1614)年には、信吉の実兄・富田信高の改易(この改易自体が大久保長安事件に連座したものと言われます)に連座して改易となり、ここに大名としての佐野氏は終焉を迎えることとなりました。こうなるともう、運が悪いとしか言いようがありません。なお、了伯こと房綱は関ヶ原直後の慶長6(1601)年に、信吉自身は元和8(1622)年にそれぞれ死去しています。

なお、佐野氏に直接関係ないものの、佐野と言えば源左衛門と善左衛門。謡曲「鉢の木」で知られる源左衛門の館と伝えられる場所(豊代館)は近隣にありますが、源左衛門は恐らく架空の人物です。善左衛門はかの田沼意次の長男・意知を斬った男ですが、佐野と田沼は現在も隣接しており、同郷の誼で立身を期待した善左衛門が田沼を逆恨みしたのが斬殺事件の真相だとか。おお怖い。


2.構造
(1)駐車場から中心部まで

唐沢山城は大きなお城です。見学者の多くは唐沢山神社で足踏みし、その先の廃墟のようなキャンプ場までは(薄気味悪いので)足を運びませんが、それでは勿体無いのでもっと幅広く紹介したいと思います。

唐沢山城の駐車場はなんとなく無駄に広くなっています。古図によれば「蔵屋敷」となっていて、文字通り蔵の並ぶ場所だったのでしょう。蔵屋敷の奥の「枡形」の石垣の先が、古図にいう「侍屋敷」のあった場所です。ちなみに枡形は後世に積み直されていて、必ずしも旧状通りではないようです(枡形ではなく「食違い」である、と主張する本も結構あります)。
侍屋敷の奥手左側には「大炊(井)」と呼ばれる丸くて大きな井戸があります。丸くて大きな井戸といえば太田金山城(群馬県)の日の池、月の池を連想しますが、考えてみると唐沢山城は太田金山城とそれほど離れてもいませんから、似たようなところがあってもおかしくはないのでしょう。大炊(井)の左奥が「避来矢(ひらいし)山」と言われる地域ですが、お城らしい造作はほとんど見られません。

侍屋敷の奥手右側が天徳寺丸。佐野氏存続を願ってやまなかった天徳寺了伯が隠居所として使ったことでしょう。天徳寺丸には「水琴窟」の案内が地味に出ていますので、折角ですから耳を傾けましょう。天徳寺丸の先にある堀が「四ツ目堀」。城内に数ある堀切や竪堀の中で、特に四つだけ番号で数えていたようです。ただし「一ツ目堀」と「二ツ目堀」がどれを指すのか、私にはよくわかりません。四ツ目堀を渡ると帯曲輪、そして三の丸です。帯曲輪は土塁に包まれていますので、曲輪というより横堀に見えます。このあたりからお城っぽさがむんむん濃くなってきます。三の丸には石垣も見られますが、本丸、二の丸の石垣とは趣を異にする、古い石垣です。三の丸から二の丸の南側斜面を通って二の丸に向かう途中、竪堀の「三ツ目堀」を橋で越えます。眼下には細長い「桜馬場」が広がります。

二の丸には左前方に向かって鋭角に折り返します。この道を右前方に延長すると、現在は使われていない通路のような斜面があることに気づきます。近年の調査によって、この道が正規の大手道であることが確かめられました。二の丸の周囲には鉢巻石垣が築かれ、曲輪の内側にも二段程度の石垣が築かれているほかに雁木(石垣上に登るための階段)も見られ、作りがぐっと近世的になってきます。

二の丸から本丸には緩斜面が付けられていますが、古図で見るとここは枡形状に折れ曲がっていました。二の丸には本丸に向かって左に車道も付けられていますが、これも後世の改変です。本丸の入口には立石とか力石とか鏡石とか言われる巨大な石を組んだ石垣があり、堂々たる正門であることを示しています。本丸にある唐沢山神社は佐野氏始祖である藤原秀郷を祀るため、明治16(1883)年に創建されました。本丸南側の石垣は圧巻で、高さ8m以上を数える石垣は江戸城を除けば関東随一でしょう。出入口は北東、南、西の三ヶ所にありました。北東側は現在通行不能ですが、複雑な虎口が形成されていたようです。

(2)山頂の周辺部

本丸から一段下がった「引局」(大奥みたいなもの)から、段々に南城、出丸(物見台)と続きます。引局から南城までは石垣が用いられており、見上げるとなかなか壮観です。引局の石垣は本丸に食い込んでいて高さも積み方も連続しておらず、両者の石垣は別々に築かれたものであることがわかります。

南城と引局に挟まれた通路を東に向かうと立派な井戸があります。「車の井戸」といい、茶の湯などに使った特別な井戸のようです。そこから先は一部改変があるものの、中世以来の唐沢山城を最も色濃く残すエリアとなります。弓道場のあるところが長門丸、その先が金の丸、杉の丸、そして北城と、小さな曲輪が土塁や堀切で仕切られながら続々と登場します。北城の先端、二重堀切を越えた先はハイキングコースとなって薄気味悪いキャンプ場へと続きます。その先にも堀切が見られ、堀切の先で分岐したそれぞれの道の先にも堀切と土橋があり、一部石垣も見られます。こうした城郭先端部の加工は佐野氏忠の時代(つまり後北条氏)のものと言われているところです。一方、このエリアの北側斜面には幾筋もの竪堀が存在し(藪でよく見えませんが)、上杉氏のものと言われている場所です。南城に戻り、「つつじが丘」の案内に沿って尾根伝いに当たりをつけて歩いていくと、直角の折れを持つ空堀が登場します。ここもまた後北条氏のものと言われています。後北条、上杉、また後北条と、唐沢山城の山頂周辺部はあたかも縄張学の品評会のような様相を呈しています。

(3)駐車場の外側と山麓

枡形の右にある「天狗岩」からは富士山やスカイツリー、新宿高層ビル群をも視野に捉えられ、なるほど「江戸が丸見え」です。近隣には鏡岩という岩もありますが、どう見ても鏡には見えません。駐車場入口近くにある「土櫓」は古図で見ると石垣造りとなっていますが、私は確認できませんでした。土櫓脇の大木戸からは麓に降りる道が整備されていますが、この道が現在では正規の大手道と考えられています。

西側山麓には高い場所から順に「御台所」と隼人屋敷、それに家中屋敷群があります。特筆すべきは御台所で、前面ではなく後面、すなわち山に面した側に巨大な土塁と堀が築かれており、唐沢山城では必見のポイントです。防御を考えると意味不明なこの土塁の意味するところが長らく不明だったのですが、大手道に面しているため遮蔽用に土塁を築いたと考えれば合点が行きます。

隼人屋敷は四方が堀に囲まれていた様子が古図で窺えますが、現在でも三方に堀が残っています。発掘調査では複数箇所から石垣が検出されていますが、この地域は立ち入り禁止となっています。家中屋敷は現在、深い藪の中に埋もれています。段々になった屋敷地が埋もれているようで、ちらほらと石垣も検出されていますが、残念ながら埋め戻されています。屋敷南端の竪堀は北関東自動車道に埋もれました。

4.むすびにかえて

最後に疑問を二つ。
まず、この石垣は誰が築いたのかという点です。石垣はその特徴から、関ヶ原直前の頃に西国の石垣手法を取り入れて築かれたと考えてよさそうです。となればこの石垣を築いたのは天徳寺了伯と見て間違いないでしょう。秀吉のもとで大坂城の造営を間近に見ていた了伯にとって、唐沢山城を石垣で固めることは、同時代の西国のお城同様に、権力の足固めの意味を持っていたことでしょう。金の瓦でも出土すれば、それが更に秀吉の思惑によるものであることを裏付けられそうなのですが。

もう一つの疑問は、唐沢山城はなぜ「破城」にならなかったのかという点です。西国のお城は廃城となった後、徹底的に破壊されました。廃城時に佐野氏は存続していたという事情があるにせよ、廃城だけで石垣を崩す等の破城処理を行わなかったことに疑問を感じます。この点、幕府はもしやこのお城を直接支配に切り替えて、東北方面への抑えとして利用したいという意向があったのではないかと推察しています。そしてその役割は、丹羽氏を活用した石垣城郭の構築(白河小峰城:寛永9(1632)年完成、二本松城:寛永20(1643)年完成)によって終焉したと見ます。ただその後も万一に備え、幕府はこのお城を秘匿し続けたのではないでしょうか。この山が江戸時代を通じ、譜代筆頭格の井伊氏の管理下に置かれ、立入禁止となったことや、断続的に復活した佐野藩の藩主がこちらも譜代筆頭格の堀田氏であったことは、こうした事実を裏付ける材料とはならないでしょうか。

有事の際の備えとして維持されながら一度も城郭として復活することもないまま眠り続けた唐沢山城。
唐沢山神社を作ろうとした際、高石垣の多くは草木に埋もれ、その存在すら忘れ去られていたそうです。

参考資料:「唐沢山城と佐野氏」「関東の名城を歩く 南関東編」「探訪ブックス 関東の城」ほか







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