「小机城〜てならいのはじめ」

〜城跡de ランチ&デザートの添え物として〜

初稿公開日:2012.5.12


「小机はまず手習いのはじめにて いろはにほへとちりぢりとなる」
戦国時代のスーパーヒーロー・太田道灌が小机城を攻略する際に詠んだ歌と伝えられています。この逸話の真偽はさておき、長尾景春の乱の一舞台として、「小机衆」の本拠地として、はたまた北条三郎の伝承を残す歴史的名城として、このお城の史料的価値は極めて高いと言わざるを得ません。
本稿では、そんな小机城にまつわる歴史と、その構造について、簡単にご紹介していきます。

1.時代背景
(1)太田道灌と長尾景春の乱

小机城を語るには、太田道灌という稀代の傑物に触れないわけにはまいりません。太田道灌は文明10(1478)年に小机城を囲んでいます。太田道灌が小机城を囲むことになったいきさつを語るには、どうしても「長尾景春の乱」に触れざるを得ません。ややこしい話ですが、ちょっとの間、お付き合いください。

長尾景春は上杉家の家宰(筆頭家老みたいなもの)を務める長尾家の人です。ちなみに太田道灌も上杉家の家宰です。ほらややこしい。まず、上杉家は4家(宅間、犬懸、山内、扇谷)あります。盟主が山内で、第二位が扇谷。その山内上杉家の家宰が長尾家で、扇谷上杉家の家宰が太田家です。長尾家がまたいっぱい分かれて(惣社、白井、足利、越後、古志など)あり、その中では白井長尾家が相対的に強く、その白井長尾家を継いだのが景春です。ところが、山内上杉家には家宰職を持ち回りで務める習わしがあると言われ、景春には家宰の座が巡ってきませんでした。これを逆恨みした景春が反乱を起こしたのが、「長尾景春の乱」です。この乱は個人名が冠された乱としては異様に長く、文明8(1476)年から文明12年(1480年)まで延々と続きます。ちなみに長尾景春の乱は、山内上杉氏と古河公方・足利成氏とが対立し、長禄元(1457)年から開始された「五十子(いかっこ)の戦い」の最中に起こされます。長尾景春は20年も続いた五十子の戦いを終焉させる一方で、そこから5年近くに亘る長い戦いのきっかけを作る、悪のヒーローです。

この景春に真っ向から立ち向かったのが、我らがヒーロー・太田道灌。道灌は、景春に呼応して立ち上がった関東の名族・豊島泰経とその一族を練馬城(いまの豊島園)、平塚城(東京都北区の平塚神社近辺)で破り、ついで立て籠もった石神井城(いまの石神井公園)をも陥落させます。石神井城を落とされた豊島泰経が逃げ込んだ先が小机城・・・やれやれ。お待たせしました。ここで漸く小机城の登場です。

太田道灌は、小机城と鶴見川を挟んで向かい合う「亀之甲山」に陣城を築き、小机城をじっくり攻める覚悟を決めます。「小机は・・」の歌はその際に詠まれたものと伝えられ、小机城を舐めきった歌とも取れます(実際、2009年に開催された茅ヶ崎城オフ(横浜市)の際には私もそんな話をしました)が、道灌をしてそんなふうに士気を鼓舞しなければならないくらい、小机城が攻め難いお城だったということを示しているのではないでしょうか。道灌ほどの人物が小机城の攻略に2ヶ月を要している点でも、小机城、なかなかの堅城ぶりを発揮していると言えるでしょう。
その後、道灌は長尾景春が立て籠もる鉢形城を攻め、これも落としています。道灌さん、名だたる城を続々と落としています。このあたり、さすがはスーパースターです。更にその後、太田道灌と長尾景春がどういう運命を辿ったのかまで書いてしまうと、小机城からだんだん離れてしまうので、ここでは割愛することにします。

(2)小田原衆所領役帳

関東には「小田原衆所領役帳」と通称される第一級の資料が残されています(写本ですが)。これが、小田原に本拠を構える後北条氏から見て、ある時期に掌握していた集団の所領と所属が全て掲載されているという、実に素敵な優れもの。先の茅ヶ崎オフで「茅ヶ崎には、座間なんとかという武士がいたということがわかっている」と言ったのも、この資料が根拠です。ちなみに座間は、後に述べる「小机衆」の一人として、この役帳に登場しています。

「小田原衆所領役帳」は永禄2(1559)年に作られたと言われています。太田道灌が活躍した時代から80年ほどの年月が流れていますが、後北条氏の滅亡までまだ21年もある頃のものであり、後北条氏支配の最終形ではありません。この時点では、後に後北条氏の主力部隊となる鉢形衆も滝山・八王子衆も岩槻衆もありません。一方、小机衆は、玉縄衆や江戸衆などとともに、この役帳に登場します。小机は小田原に近いというその場所柄、鉢形衆や滝山・八王子衆よりも早くから軍団として整理されていたことを示しています。ただし、小机衆の配置は玉縄衆などと同列ではありません。役帳に記載された順を正確に記すと、小田原衆に始まり、以下、御馬廻衆・玉縄衆・江戸衆・松山衆・伊豆衆・津久井衆・諸足軽衆・職人衆・他国衆・社領・寺領・御家門衆・御家中役之衆・半役被仰付衆・小机衆となります。小机衆、末端です(ちなみにこの後に「京下りの人々(伊勢氏)」なんていう方々も続きますが)。なんでこんなに小机衆が後ろにあるのかと言うと、どうやら当時の小机衆は独立した「衆」と認められる端境期にあったようで、事実上、小田原の直轄扱いだったもののようです。

小机衆の名前を全部書くとこうなります。三郎殿、神田次郎左衛門、曽祢外記、曽祢采女助、二宮播磨、吉田、市野助太郎、市野四郎左衛門、市野弥次郎、田中、福田、笠原弥十郎、高田玄蕃助、高田寄子、猿渡、座間、石原、堂村、岩本和泉、中田加賀守、岩本右近、沼上、長谷川、長谷川弥五郎、座間新左衛門、村嶋豊左衛門、上田左近、笠原平左衛門、増田。それに成田氏の被官であった代官4名を加えると、計33名が名を連ねている計算になります。所領、占めて3,438貫192文。1貫を概ね6石と計算すると、小机衆の総勢力はおよそ2万石だったということになります。

なお、天正18(1590)年の小田原の役の直前、豊臣家が調査した後北条氏の戦力分析「北条家人数覚書」には小机衆の記載はなく、また落城の記録もありません。一方、小田原の役に備え、兵隊さんの身体検査を小机の地でやるように北条氏政が命じた文書が残っていることから、もしかしたら小机城はある時期から戦略的な意味が消え、単なる「お役所(保健所?)」としての機能しか持っていなかったのかもしれません。

(3)ふたりの「北条三郎」

さて、小机城にはふたりの「北条三郎」が登場します。一人目の「三郎」は、北条幻庵(後北条5代全てに仕えた経験を持つ、スーパーおじいちゃん)の長男。この三郎は、永禄3(1560)年に亡くなっているようです。その後、北条氏堯(氏綱の子、氏康の弟)、北条氏信(幻庵の次男、永禄12(1569)年に蒲原城(静岡県)で戦死)と城主が代わり、二人目の「三郎」へと続きます。この三郎は「氏秀」と名乗ったようですが、三郎と言えば越相同盟の証拠として永禄13(1570)年3月に「敵地」越後に送り込まれたのが三郎で、それは上杉謙信の養子となって御館の乱で散る人物と同名です。そうです。近年つとに有名になった美青年・上杉三郎景虎です。三郎景虎が幻庵の養子になっていた(養子だったとしても、その期間は永禄12年12月から永禄13年3月までの、ほんの3ヶ月という短い間でしたが)という話自体に異説もあるので何とも言えないのですが、この話が本当ならは、このお城は薄幸の美青年、上杉景虎がほんの一瞬幸せな青年時代を過ごした由緒ある場所、ということにもなります。太田道灌といい、上杉景虎といい、小机城は、なかなかのスーパースターに彩られた歴史を持っています。

もっとも実際の小机城は、城代であった笠原氏が守っていたようで、城下の雲松院には、弘治3(1557)年に亡くなった笠原信為が葬られているほか、現在でもご子孫がこのあたりに在住されているようです。

2.構造
(1)ふたつの「本丸」

小机城の本丸論争・・・というと話が大げさになりますが、昔はよく「で、どっちが本丸でしょうね?」と聞かれたものです。小机城は主にふたつの大きな曲輪と、その間に挟まれた細長い曲輪とで構成されていて、大きな堀によって仕切られています。このお城、東西南北の感覚がわかりにくいので、お城の登り口から見て「右」と「左」という言い方をします。
左の曲輪は北東隅が凹んだ四角形で、相対的に出っ張った東南隅は、見方によっては枡形になっています。井戸もあります。南側には立派な土橋(まっすぐに橋が架かっておらず(「食い違い」)、このお城の見所のひとつです)があって、土橋の手前には馬出し(攻撃時の起点となる、お城の入口に付けられた出っ張り)状の曲輪に守られ、その馬出し状の曲輪の中に、更に角馬出しのようなものがあったりします。

右の曲輪は不整形ですが、左の曲輪にはない大型の「櫓台」が存在していて、お城の中心的構築物を置くにはもってこいだったりします。浅野文庫の「諸国古城之図」に収められている「北条三郎居城」図では、右が本城、左が「三」で、間にある細長い曲輪を「三」と数えています。ただこの図、お城を総石垣で書いていることもあって、どこまでほんとかよくわかりませんけれども。

そんなわけで、実のところどちらが本丸だったのかははっきりしないのですが、見た目の整形度合の違いから見れば右が古く、左が新しいものだと位置づけられています。最近では「左が本丸」説が有力になってきて、左を伝本丸、右を伝二の丸と呼ぶケースも出てきています。でも地元では右が伝本丸、左が伝二の丸です。はてさて、どちらが本丸なのでしょう。

(2)その他の構造

ふたつの「本丸」の間には、細長い曲輪が挟まっています。実はこの曲輪が城内で一番高いところにあります。両端はそれぞれ堀底に向けて出っ張っており、それぞれやたらと広い射程範囲を持って、堀底の敵に備えています。地味ですが、小机城の中では極めて特徴的な場所になっています。
更に、このお城の見所は、なんといっても、堀。堀幅は約20mを図り、擁壁の傾斜の美しさは芸術的ですらあります。後北条氏が手掛けたと言われるお城では、本佐倉城(千葉県)でも小田原城(神奈川県)でもこの小机城でも、総じて美しい傾斜の堀を眺めることができます(武田氏のお城は、総じて堀の傾斜角が容赦なく垂直に近く掘り込まれていて、身震いしてしまいますが・・・)。

なお、前述の「左の曲輪」の前面に存在する堀の跡ですが、お城の出入り口を固める役割を果たしつつ、堀底への通路としても機能したものと言われています。意外と技巧的な場所ですが、うっかりしていると堀の存在自体を見逃しますので、注意深く見学したいところです。

また、よくよく目を凝らしてみると、山の中腹にもまだ沢山の曲輪が眠っていますし、第三京浜の建設で消えてしまった場所にも、多くの遺構が残っていたことでしょう。ただし、小机城の山林は「小机城址市民の森」として開放されていますが、これは地主さんたちのご理解とご協力の賜物です。道のない場所には足を踏み入れないようにしたいものです。なお、「市民の森」入口の右側に広がる住宅地は、近年まで空地となっていて、いかにも「館」がありそうな景観を示していました。

第三京浜を挟んだ反対側も、小机城の範囲です。「富士仙元」と呼ばれる場所で、「新編武蔵国風土記稿」によれば、「搦手の跡には土人城坂と呼ぶ坂あり、鐘つき堂の跡なりとて高き台あり、此所は本丸の郭外なりと云」といった記載があります。この「高き台」は、「富士仙元大菩薩」という石碑が立っている塚のことを指すのでしょう。江戸時代には「富士講」と呼ばれる富士山信仰が盛んになり、特に関東では「富士塚」と呼ばれる築山が盛んに築かれていますから、この塚ももしかしたら富士講のものと思えなくもありません。ただし、石碑は文久元(1861)年であり、「新編武蔵国風土記稿」が編纂されたのは文政13(1830)年ですから、石碑が立つよりも前にこの塚は存在したことになります。

更に、現在の横浜線を挟んで反対側にある山並みまで、何等かの防御的施設を構築した痕跡がある、との報告も出ています。かつての小机城は、もっともっと広大でした。

4.むすびにかえて

小机城は、実はまともな発掘調査を受けていません。本稿のような資料を用意する際にはまず、そのお城の「調査報告書」を探すことから始めるのですが、小机城のものはなかなか見つかりません(第三京浜建設の際に緊急調査報告書みたいなものは出ていると思うのですが、今のところ見つけていません)。

歴史的位置づけがはっきりしている割には考古学的な裏付けがないのも、小机城の特徴のひとつかもしれません。何しろ本丸さえよくわからないのですから。が、わからないことが多いということは、それだけ考える余地も多いということ。目の前のお城を眺めながら、かつての姿をあれこれ妄想するのも楽しいのではないでしょうか。

参考資料
「日本城郭体系(千葉・神奈川)」「関東の名城を歩く 南関東編」「小田原衆所領役帳(戦国遺文後北条氏編別冊)」ほか








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