「静岡のまーるい城」

〜ミニオフ会の添え物として〜

初稿公開日:2012.4.14


恒例となった「静岡まーるい城ミニオフ」の手元資料として、簡単に訪問先のお城をご紹介します。

1.まーるい城の舞台・駿遠地域の歴史概観

 まーるい城の舞台である駿遠地域は、戦国時代半ばまでは今川氏の領国として、比較的安定した時代を過ごしていました。それが永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで当主・今川義元が戦死したことにより、情勢が一変します。永禄11(1568)年には武田信玄が駿河に侵攻、今川氏真はこの年の暮れ、駿府を脱出して掛川城に逃れ、この時点で事実上、駿遠地域における今川氏の支配が終焉します。駿遠地域はその後、徳川家康と武田信玄との間で獲り合いとなり、駿遠国境の大井川を挟んで激烈な戦いが続きます。武田信玄は次第に徳川家康を追い詰め、元亀3(1572)年、三方原の戦いで徳川・織田連合軍を徹底的に打ち破ります。翌元亀4(1573)年には武田信玄が急死しますが、信玄の後を継いだ武田勝頼は遠州侵攻を再開し、天正2(1574)年には信玄でも落とせなかった高天神城の攻略に成功します。信玄の死から勝頼の高天神城攻略まで、わずか14ヶ月の出来事でした。武田氏の遠州侵攻は、信玄から勝頼までの間、ほぼ切れ目がなかったことは注目に値します。表面的には、信玄がいなくなっても、遠州における武田氏の脅威は何ら変わることがなかったことでしょう。

 天正3(1575)年の長篠の戦いは、武田氏の衰運を決定付けたものとして世に知られていますが、高天神城が再び徳川家康の元に戻ったのは天正9(1581)年のこと。信玄の死から長篠の戦いまでが23ヶ月であったのに対し、長篠の戦から徳川家康の高天神城奪回までには68ヶ月もの長い年月がかかっています。そこから武田氏滅亡までが12ヶ月。更にそこから本能寺の変までが、実にわずか3ヶ月。加速度的に早まる歴史の流れの中で、駿遠地域は、徳川家康が高天神城を奪回してから数えて15ヶ月後の天正10(1582)年に、徳川家康の支配下に落ち着きました。その徳川家康も、天正18(1590)年の小田原の役をもって駿遠の地を去っていきます。この時点で事実上、駿遠の戦国時代は完全に終焉を迎えました。

 静岡まーるい城ツアーの舞台となっている各城は、すべてこの間の歴史に絡んで築かれ、守られ、陥落して、消えていきました。ただひとつ田中城だけが、戦国当時の姿を色濃く残したまま、近世大名の居城として明治までその姿を伝えることになります。


2.諏訪原城

(1)歴史

 諏訪原城が初めて歴史の上に現れるのは永禄12(1569)年11月。武田信玄の駿河侵攻開始からちょうど1年が経過した頃で、この頃にはもう今川氏真も掛川城を退去していました。築城の名手、各地のまーるい城の産みの親でもある馬場信春が縄張りを担当しました。武徳編年集成によれば、築城後ほどなく、徳川家康によって攻略されたようですから、大井川を越えて遠州へと侵入してきた最前線基地としての諏訪原城は、家康にとっても何とも邪魔な存在だったのでしょう。

 天正元(1573)年、武田信玄の後を受けた武田勝頼が、すぐさま諏訪原城の修築を命じています。これに対し天正3(1575)年6月、長篠の戦が終わって間もなくの頃に徳川家康が掛川城に入り、諏訪原城の攻略を開始します。このあたり、実に迅速です。2ヶ月の攻防(というと結構長く持ちこたえたわけですが)の後、8月24日になって、城を守っていた海野氏や遠山氏(武田氏関連の歴史に詳しい方は、この両氏が本貫地からはるか離れたこの城を守っていたことに涙するかもしれませんね)が夜中に城を捨て、小山城へと逃げ込んだことで諏訪原城は陥落します。ちなみに、この日「周の文王殷紂を牧野に薮りし」の故事をもって、徳川家康は諏訪原城を牧野原城と改名したと伝えられ、これ以降正式には、この城は牧野原城(牧野城)となります。天正10(1582)年、城代の松平康親は沼津市の三枚橋城に移り、以後は空き城となったようですから、武田氏の脅威が消え去って、駿遠両国が徳川氏の支配下に落ち着いてからは、国境防衛のための諏訪原城も不要になったということでしょう。

(2)構造

 諏訪原城全体は円形ではなく「扇形」です。牧ノ原台地が東側にちょっと突き出た場所を、大きく二重の堀で切り落とした基本構成となっています。駐車場から城内に向かうと、すぐにとっても浅い堀が現れます。これがもとの大手曲輪を画した堀で、大手曲輪自体も馬出しの機能を有していました。このお城、くどいくらいに馬出しが作られていて、それがまた実によく残っています。見落としがちな場所ですが、この堀も「ほうほう」と見ておきましょう。

 右手にまーるい馬出しを見ながら堀沿いに進むと、やがて左側にもっと大きな馬出しが見えてきます。城内最大の丸馬出しで、その先にはとっても技巧的な構造が見られます。見学ルート順に行くと、最初の見所でしょう。そこから土橋を渡って大きな曲輪に入ります。そこが二の丸(北郭)。入って右手に仕切りのような土塁があって、その向こう側が三の丸(中郭及び南郭)です。

 このお城は国指定史跡として継続的な発掘調査が進められており、虎口の他、主要部分には低い石垣が用いられていたことがわかっています。なお、当然のことですが、このお城の最終形は徳川家康によって作られましたから、武田氏ではなく徳川氏のお城です(個人的には、徳川氏は基本構造(縄張り)自体をあまりいじっていないようには思いますので、武田氏のお城としてもよいと思いますが)。

 二の丸からもう一本堀を渡ると、そこが本丸です。分厚い土塁に囲まれています。本丸の奥には一段低い腰曲輪が付けられていて、その先には「おお」と思うような綺麗な横堀が見られます。ここも見所のひとつです。本丸土塁にそって、左手に横堀を除き込みながら坂を下ると、やがて本丸と二の丸を画する堀に降り立つことができ、そこに「かんかん井戸」と呼ばれる井戸が現存しています。井戸は他にも2か所ほどあって、このお城は水に困ることはなかったようです。堀の反対側に上がると三の丸に戻ります。三の丸も大きな曲輪で、二の丸とともにここも大きな土塁に囲まれています。そこから遊歩道に沿って歩いていくと、再び堀を渡り、神社のある大きな丸馬出しに出ます。ここが最初に見た、「右手に見える」まーるい馬出しです。これでほぼ一周。実はこのほかにも3か所ほど馬出しがあるのですが、どういうわけか遊歩道から外れていて、普通に歩くとたどり着けません。


3.小山城

(1)歴史

 「今川分限帳」によれば、小山の地は井伊肥後守直親なる武将の支配下にあったようです。その後、元亀2(1571)年になって、武田信玄が大井川を越え、遠州への本格侵攻を始めた後、馬場信春(ふたたび登場)の縄張りによって現在の小山城の姿が整えられました。小山城の城将は、大熊備前守長秀です。大熊氏はもともと越後上杉氏の家臣で、越後上杉氏滅亡の後は長尾景虎(上杉謙信)の腹心として活躍しますが、長尾氏の家中騒動(景虎が一時政務を放ったらして出奔した頃)に巻き込まれて長尾氏を離れ、武田信玄に拾われるという、なかなか複雑な運命を辿っています。大熊備前、地元では相応に愛されているようで、小山城の近隣を貫くトンネルには「備前守隧道」と銘打たれています。

 天正3(1575)年、近隣の諏訪原城が徳川氏によって陥落しますが、小山城はその後も持ちこたえ、天正9(1581)年に高天神城が陥落した後もまだまだ持ちこたえ、天正10(1582)年2月16日にやっと落城しました。3月11日に武田氏が滅亡したことを思えば、小山城は城郭として精一杯の役割を果たしたのではないでしょうか。

(2)構造

 台地の突端を本丸とし、堀切で二の丸、三の丸とを仕切った、実に単純な構造です。とはいえ、このお城を特徴付けているのは、まーるい馬出し。「甲陽軍鑑」に収められた小山城の絵図には二の丸に大きな三日月堀が描かれていますが、「日本城郭体系」(昭和54年刊)では「仮にここに、この馬出し曲輪と三日月堀が付属していたとすればたいへん狭く行動にも不便であって古図と現状はそぐわなくなり一考を要する」と、その実在性につき疑義が呈されていました。そこで、小山城を公園として整備するに先立ち、昭和60年に発掘調査が実施されましたが、絵図面通りの三日月堀が現れて人々を驚かせました。現在、その場所に三日月堀が復元されていますが、実際に検出された堀はもっと険しく、もっと深いものでした。何故それを知っているかというと、私がこの発掘現場にいたからです(笑)。出土した焼米も、発掘現場のテントの中で、この目で見ました(現在、展望台小山城(=模擬天守)で見ることができます)。

 さて、このお城の最大の見所は、三の丸の外に存在する三重の三日月堀です。これでもか!・・・というまーるい堀の三連続。百聞は一見にしかず。ここはぜひ実際に、その目で見て頂ければと思います。


4.田中城

(1)歴史

 この地にはかつて「徳之一色城」と呼ばれるお城があり、永禄年間、今川氏真の勢力が衰退する中にあって、今川の将・長谷川正長が頑張っていましたが、武田信玄に撃退されました。永禄13(1570、元亀元)年、武田信玄は馬場信春(みたび登場!)に縄張りを命じ、世にも珍しい真円形のお城がここに誕生しました。武田信玄は重臣・山県昌景をこの城に残し、近隣支配を昌景に任せました。この点、軍事拠点としての諏訪原城や小山城と、政治拠点としての田中城に、位置づけの差が見られるような気がします。

 天正6(1578)年頃には、田中城は徳川家康の脅威に晒されるようになりますが、城将・依田信蕃は辛抱強くこのお城を守ります。天正10(1582)年2月16日に小山城が落城した後もまだまだ持ちこたえ、3月1日になって徳川家康の説得に応じて開城するまで、田中城は武田氏のものであり続けました。ちなみにその翌日の3月2日には信濃高遠城が壮絶な落城劇を演じ、それから9日後には天目山で武田氏が滅亡します。甲府から遠く離れたこの場所で、武田氏が滅亡するほんの10日前まで武田氏の城であり続けたことは脅威というほかなく、田中城もまた、城郭としての役割を存分に果たしたと言えるでしょう。
ちなみにその後の田中城は、酒井氏、桜井松平氏、水野氏、藤井松平氏、北条氏、西尾氏、酒井氏、土屋氏、太田氏、内藤氏、土岐氏、本多氏と、譜代の中堅大名がめまぐるしく入れ替わりながら、田中藩・本多氏4万石のお城として、明治を迎えます。

(2)構造

 このお城、四角い本丸がまーるくまーるく三重の土塁と堀で囲まれていました。また、二の丸の二方向に加え、三の丸に至っては四方向全てに丸馬出しが設けられるという、まーるいもの尽くしです。

 本丸に小中学校が作られて以降、次第に土塁が削り取られ、堀も埋められて徐々にその姿を失いつつあったこのお城も、最近では保存・復興の機運が芽生えています。近隣に移築されていた櫓(見た目はお城っぽくないのですが現存の櫓です!)を城下に戻し、辻辻には「だれだれの屋敷跡」との看板が建てられ、地元自治体で土地を買い上げるなど、少しずつですが、お城らしさが蘇りつつあります。
このお城では、わずかに残された水堀と土塁のほか、堀跡にそって作られたまーるい道路と、住宅の間に存在する土塁と堀の高低差、さらには唯一残る馬出しの痕跡の中に築かれた「まーるい敷地の民家」など、まーるいお城の名残が随所に見られ、想像力さえ膨らめば、このお城ならではの楽しみを味わうことができます。


5.丸子城

 紙面が終わりに近づいてきました。丸子城については別の資料をご覧ください。

 時間軸だけ押さえておくと、永禄11(1568)年、武田信玄の駿河侵攻と同時にその重臣・山県昌景が2,500名の兵とともに丸子に駐屯したことが知られていますから、今川竜王丸隠棲の地となるなど、今川氏にとって重要な場所であるはずの丸子の地は、武田氏の駿河支配の初期段階から抑えられていました。

 丸子城は、天正6(1578)年、城将・屋代勝永が大々的な修築を施した際に現在見る姿になったようですが、天正9(1581)年には、このお城は徳川家康の手に落ちています。無血開城だったようです。高天神城が徳川氏の手に落ちるより、ずっと前のことです。冷酷無比な実戦的名城である丸子城は、あまりに構えが重厚過ぎて、まともに攻めてももらえなかったということでしょうか。


6.むすびにかえて

 今回のミニオフで訪ねる諏訪原、小山、田中、丸子の4城は、静岡に残る代表的な「まーるい城」を繋ぎ合わせたものですが、この4城はともに、駿遠地域を巡って壮烈な争いを演じた武田氏と徳川氏という二大勢力の攻防の中にあって、それぞれに重要な役割を演じたお城であったことを、この資料の作成を通じて、私自身が再認識しました。武田信玄の圧倒的な勢力とその急死、武田勝頼の意外な善戦と長篠の戦という大失策、武田氏の衰退から滅亡、更には本能寺の変に至るまでの、急加速度的な歴史の変転に対する正確な時間軸への理解があれば、このミニオフは一層楽しめるものになると思います。

参考資料:「静岡県の中世城館跡」「日本城郭体系(静岡・愛知・岐阜)」「静岡の山城ベスト50を歩く」ほか







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