「箕輪城〜地中に眠る戦国ロマン」

〜mixiコミュ 「お城めぐりしよう!」オフ会の添え物として〜

初稿公開日:2011.10.22


名将・長野業政や剣聖・上泉信綱にまつわる伝説的なお城として、また日本100名城スタンプのお城として、今やお城ファンの中では知らぬ者がないほど有名になった、箕輪城。このお城は、長野氏、武田氏、織田氏、後北条氏、井伊氏といった錚々たる武将達のロマンによって彩られ、他のお城にはない多彩な特徴を有しています。

1.箕輪城の歴史

(1)長野氏時代(1527年以前〜1566年)

 長野氏は在原業平を祖先とし、早くから上州に土着した氏族です。正嘉2(1258)年には、鎌倉将軍(宗尊親王)の供奉人として「永野次郎太郎」が登場します(「吾妻鏡」)。今のところ、この次郎太郎が歴史上に現れた最初の長野氏です。箕輪城が長野氏の城として確実に登場するのは、大永7(1527)年の「長野方斎(方業?)書状」が最初ですが、翌・享禄元(1528)年には、いよいよ「長野信濃守業正」が上州長尾氏の内訌を調停する役割として、初めて歴史上に現れます(「双林寺伝記」)。

 長野業政は、少なくとも3度(弘治3(1557)年、永禄元(1558)年、永禄4(1561)年)に亘って武田氏を撃退したことで、武名を天下に轟かせます。実は、遅くとも永禄4年までに業政は没していますので、永禄4年の戦いはその死を秘したまま武田信玄を追い返していた可能性があります。「死せる業政、生ける信玄を走らす」といったところでしょうか。

 結局、永禄9(1566)年の武田氏侵攻によって長野氏は玉砕し、歴史上の表舞台から消えて行きます。業政の跡を継いだ業盛は、数えでわずか19歳。業政は業盛に対し、「城を枕に討死しろ」というとんでもない遺言を残しました。こんな遺言を託された息子はたまったものではなかったはずですが、息子もなかなか立派なもので、その遺言を見事に実践してのけました。業盛が自刃した持仏堂は、現在の本丸の北、御前曲輪に存在したと言われています。
なお、この時、剣聖・上泉信綱は箕輪城内で奮戦していましたが、業盛自刃の報を受け、単独で活路を開き、館林に向けて脱出しました。後に武田信玄から仕官の誘いを受けますが、信綱、毅然とした態度でこれを断り、信玄もまたそれを罰することなく容認したという逸話が残っています。漢(おとこ)は漢を知る。長野氏が箕輪城にあった時代は、戦国の世ならではの、ロマン溢れる逸話に彩られています。

(2)武田氏時代(1566年〜1582年)

 永禄9年から天正10(1582)年の武田氏滅亡まで、箕輪城は武田氏の管理下にあり、名のある武将が続々と城代に任じられます。諸説ありますが、今のところ永禄9〜10年が真田幸隆、永禄11〜12年が浅利信種、永禄12〜天正3年が内藤昌秀、しばし城代不在の後、天正7〜天正10年が内藤昌月・・・という当たりがどうやら確実なようです(甘利氏が城代だったことを示す文書もありますので、城代が複数いた時期もあるようですが)。ちなみに浅利信種は永禄12年の三増峠の戦いで戦死、内藤昌秀は天正3年の長篠の戦いで戦死しています。天正10年は武田氏の滅亡の年です。武田氏による箕輪城支配の時期が凡そいつごろのものであったかがご理解頂けることでしょう。

 「真田家文書」の中に、永禄10(1567)年3月8日、武田信玄が真田幸隆に宛てて箕輪城の普請・知行割を行うよう指示した文書が残っています。少なくともこの時、箕輪城は改修工事期間に入っています。箕輪城には、真田氏の手も入っているんですね。

(3)織田氏、後北条氏時代(1582年〜1590年)

 天正10(1582)年の武田氏滅亡後、上州には滝川一益がやってきます・・・が、同じ年、本能寺の変が勃発し、一益は畿内にとんぼ返りします。それから天正18(1590)年までは、箕輪城は北条氏邦の持ち城となりました。鉢形城主と兼務だったようですが、「氏邦箕輪ご在城」という文書が複数残っていますので、実際に箕輪城に住んでいた時期も結構あるようです。「宇津木文書」や「飯塚文書」によれば、天正15(1587)年の5月から8月にかけ、北条氏邦が箕輪城の普請のための人足派遣を要請(人足5人出せ。鍬と”もっこ”を持ってきて、10日で普請を終わらせろ、といったえらく細かい指示)していますから、箕輪城は天正15年頃にも改修工事期間入りしていることになります。

(4)井伊氏時代(1590年〜1598年)

 天正18(1590)年には、小田原の役が勃発します。小田原の役当時、箕輪城は羽賀信濃守が守備していましたが、保科正直の説得により城を明け渡し、まともな戦いはやっていない模様です。小田原城落城から1ヶ月後の天正18年8月7日には、豊臣秀吉の命によって「井伊侍従」が箕輪の知行と普請を命じられた、とあります(「彦根藩井伊家文書」)。井伊直政は徳川家康の重臣ですが、直江兼続等と同様に豊臣秀吉から力量を認められ、「侍従」として秀吉直々の命令をも受ける立場であったことがわかります。

 井伊直政は入城後、直ちに城の改修に入ります。箕輪城、またまた改修工事期間入りです。徳川家筆頭石高(12万石)を有する実力者の城郭として、このお城は大いに面目を施すこととなりました。ところが、直政は慶長2(1597)年、突如として和田(現在の高崎)への築城を開始し、翌慶長3年には城も寺も城下町も、もろともに高崎へと移ってしまいます。

 井伊直政が箕輪城を離れたきっかけの一つとして、「豊臣氏から拝領した箕輪城を破棄することで、徳川氏の家臣であることを正式表明した」との説が掲げられています。高崎城の築城が開始されたのは慶長2(1597)年、秀吉の死は慶長3(1598)年ですから、説としては微妙なところがありますが、面白い説なので一応紹介しておきます。

 ちなみに高崎城への移転理由は、箕輪の地が傾斜地で城下町の拡大に支障があったことや、中山道等の街道筋が変化したことなども挙げられています。また、この頃は劇的に治水工事の水準が拡大し、生産地(=田んぼ)に近く、交通に便利な平野部を水害から守りつつ、城下町として開発することが可能になってきた時期とも重なりますので、全国的にも山城から平野部への城郭移転が進んでいます。突然の高崎への移転は、そういった当時の風潮の中で、必然的な流れであったのかもしれません。


2.箕輪城の構造

(1)基本プラン

 箕輪城の中心部は、南北に御前曲輪、本丸、二の丸と連なる一直線のラインが基本プランですが、このラインの西側にも、通仲曲輪、蔵屋敷、三の丸と連なる、もう一本のラインを持っている点で、一風変わった縄張りとなっています。二つのラインの南端は大堀切によって遮断され、大堀切の南側には「木俣」と呼ばれる謎の曲輪があって、そこから水の手や大手門方面へと下っています。

 本丸の南側には角馬出のような区画が付属していて、二の丸の外側にも大堀切に出っ張るような形で「郭馬出」と呼ばれる曲輪が付属しています。本丸の北側にある御前曲輪も、見方によっては大きな馬出と見ることができます。箕輪城の馬出の多くは角馬出ですが、お城の最北部、新曲輪に面したところに、不明瞭ではありますが「丸馬出」と呼ばれる場所が残っています。角馬出と丸馬出が混在している点も、武田氏や後北条氏、井伊氏がせっせと改築を繰り返したお城ならではの特徴と言えるでしょう。

(2)城門

 発掘調査の結果、城門の遺構があちこちから検出されました。その多くは、石組の排水路や石敷きの床を有しており、両側を石垣で固められていました。箕輪城の遺構の多くは、その後の耕作等によって荒らされた形跡があるのですが、城門だけは良好に残されていました。どうやら、廃城後間もなく、城門部分だけは意図的に閉じられたようです(異論もあります)。検出された門は本丸の北、西、南、本丸南側の馬出、御前曲輪の西、二の丸の西と南、郭馬出の西、蔵屋敷と三の丸の間など、多数です。

 不思議なのは本丸南側の馬出に付けられた門で、この門は通路が南北であるにも関わらず、西向きに作られていることがわかりました。城内から門を出ると、眼下の堀に真っ逆さまです。岐阜県の岩村城や群馬県の太田金山城に見られる「桟道」のような構造を考慮しなければ、この門には出入りできません。

 本丸の西から蔵屋敷の間と、御前曲輪から通仲曲輪の間には、それぞれ堀を渡る橋が架けられていました。特に御前曲輪の橋は相当立派だったようで、現在露出している城内最大の石垣(高さ4.1m)は、この橋の橋台として築かれたもののようです。

 なお、城門のうち、井伊直政が軍学書から名付けたと言われる虎韜門(ことうもん)や、虎韜門のすぐ下にある白川口埋門、それに大手門のあたりはまだ発掘調査がなされていません。

(3)石垣

 御前曲輪の石垣の他、箕輪城には三の丸と鍛冶曲輪に石垣の遺構が露出しています。発掘調査の結果、このほかにも大堀切の根元や本丸土塁の内側、二の丸あたりからも石垣が検出されています。高崎市教育委員会によれば、石垣は「人の手で運べる石だけで作られたもの」と「人の手では運べない石を含んだもの」の二通りに大別されています。更に、人の手で運べる石で作られた石垣には、古いものと新しいものがあることが指摘されています。結論めいた推論を言ってしまえば、古いものは後北条氏のもの、新しいものは廃城後に鍛冶工房として再利用された(たとえば三の丸の石垣上部に広がる敷地からは、鍛冶工房の跡と、江戸時代に入ってからのものと思われる陶磁器や寛永通宝等が見つかっています)ものであり、時代的には両者の中間に位置する「人の手では運べない石」の石垣が井伊氏のもの、ということになるのでしょう。

 後北条氏の時代に属すると思われる石垣は、本丸や二の丸の土塁中に埋もれています。50cm程度の高さの石垣を階段状に積み上げた石垣は鉢形城でも発掘され、その一部が復元されています。鉢形城と箕輪城の城主はともに北条氏邦でしたから、同じ意匠の石垣が存在しても、何ら不思議はありません。

(4)堀

 発掘調査によって、これまでの常識が大きく覆されたのが、堀です。現在の本丸は南北に長くなっていますが、長野氏時代の本丸(おそらく当時の二の丸)は、今の本丸内の南北を東西に掘り込んでいました。本丸の西側を南北に縦断する堀もなく、この曲輪は恐らく東西に長い形で、御前曲輪を抱え込むように存在したものと思われます。一方、御前曲輪は相対的に現在よりも大きかったことになり、かつては本丸として機能していたことを物語っているように思われます(御前曲輪が本丸であれば、長野業盛は本丸で自刃したことになり、落城時の状況ともつじつまが合います)。

 現在の本丸の地下に眠る堀は、少なくとも2期に分かれることが指摘されています。最初のプランが長野氏、2つめのプランが武田氏で、後北条氏以降に現在のプランになったと考えるのが妥当でしょう。現在の本丸と二の丸の土塁が鉢形城と同じプランによって石垣で固められていることは、後北条氏が現在の縄張りをほぼ確定させたということなのでしょう。

(5)本丸に至る道

 長野氏時代の大手が、現在の搦手であったことはよく知られています。この大手を現在の南側に付け替えたのは井伊氏であると言われています。大手門からの道は木俣方面と虎韜門(ことうもん)方面とに分かれますが、虎韜門から三の丸に入って、はてどこを通って本丸に至るのか、という点が問題です。従来は二の丸に入り、本丸南側の角馬出を通って本丸に至るルートが想定されていましたが、角馬出の門は前述の通りへんてこな構造を持っています。一方、本丸北側の門は城内最大の規模を有しており、これを正門と考えずしてどこが正門なのだ、という見解に達しつつあります。従って、現在は三の丸から蔵屋敷を通り、通仲曲輪から橋を渡って御前曲輪に入り、御前曲輪から本丸北門を通って本丸に入るルートが正規の登城路であっただろうという結論に行き着きつつある状況です。そうなると、通仲曲輪とは、本丸に至る「道の途中(みちなか)」にある曲輪ということになりそうですね。

(6)木俣

 大堀切の南側にある「木俣」と呼ばれる空間は、「二股」「三又」と同様に、多くの方向への分岐路となっていることが曲輪名の由来であると言われています。事実、案内板にもそんなことが書いてあります。しかし、実際の木俣はそんな芸達者なジャンクションにはなっておらず、むしろ普通の曲輪です。

 「木俣」は曲輪の機能を示しているのではなく、井伊直政の筆頭家老であった木俣守勝が屋敷を構えた場所と考えるのがごく自然でしょう。


3.むすびにかえて

 箕輪城からは瓦が出てきません。枡形門も存在しません。一方、高崎城は極めて高度な縄張りを有するお城です。聡明な井伊直政のことですから、近世城郭として立ち行くにはどうにも限界がある、と判断し、高崎城の築城を決断したのかもしれません。でもそのおかげで、箕輪城は戦国末期の城郭の姿をありのまま、現代の私達に伝えることとなりました。箕輪城は今も昔も、ロマンのお城です。


参考資料:「史跡箕輪城跡[」(2008年、群馬県高崎市教育委員会)







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