「国府台城〜3回で2回?の国府台合戦を『全勝』したもの」

〜mixiコミュ 「お城めぐりしよう!」オフ会:城跡deランチ&デザート(第6回)の添え物として〜

初稿公開日:2011.5.29

「国府台城」、「小弓公方」・・・歴史に興味もなく、かつ地元でもない方で、これらの漢字を目にしただけで正確に読める方など、ほとんどいらっしゃらないのではないでしょうか。「国府台(こうのだい)」は「高野台」とも書きます。古文書などでは「鴻台」と書かれることも。「小弓」は「生実」とも書かれますが、どちらにしても読みにくく、今ではとうとう「おゆみ」という、ひらがなの地名になりました。

 この国府台にかつてはお城があって、大がかりな合戦の舞台であったことを知る人となると、さらにまた少なくなってしまうのではないでしょうか。「国府台合戦」は、「第1次」および「第2次」の2回にわたる合戦の総称とされてきましたが、研究が進むにつれて、国府台合戦は2回ではなく、少なくとも3回は行われていたことがわかってきました。いつどうやって、誰と誰が何のために戦ったのか、戦いの真の勝者とは・・・突き詰めれば突き詰めるほど、まだまだ謎の多い国府台合戦ですが、本稿ではそんな謎めいた点も含め、国府台合戦のあらましについて解説してみたいと思います。

 

1.国府台城の立地について

現在の総武本線(下り線)は、亀戸からいったん北東に向かい、小岩を過ぎたところで120度ほど右に折れ曲がり、市川を通って船橋に辿り着きます。なんとなく不自然なあの経路がどうして生まれたかというと、それが昔の海岸線だったから。総武本線は「市川砂州」と呼ばれる微高地の上を通っていて、砂州の北側には、かつて下総の国府があったあたり(つまり国府台あたり)まで、低湿地が広がっていました。

国府台城のすぐ西側には、江戸川が流れています。この川は、かつては太日川(ふとひがわ)と呼ばれ、渡良瀬川から直通で江戸湾に繋がっていました。現在の渡良瀬川はいったん利根川に入り、利根川は関宿で利根川本流と江戸川とに分かれるようになっています。これは、江戸時代になってからの治水工事で利根川を東へ東へと押しやった関係で、利根川が太日川を「横切った」ことによるものです。ちなみに江戸時代以前の荒川は現在より東(現在の「元荒川」)にあり、利根川と合流して江戸湾に注いでいましたから、荒川と利根川を足した流量を持つ巨大な川が、今の荒川と江戸川の間のあたりを通っていたことになるようです。

細かい話はさておき、国府台城は、市川の低湿地と河川とに囲まれた台地上に位置する、結構な要害だったように見受けられます。しかもこの地には古墳群があり、国府も国分寺も国分尼寺も集中している、極めて重要な土地でした。なお、国府台の乗る台地は関宿に向かって北に伸びていますが、松戸の手前のあたりで一度すっぱりと切れています。ここがかつて、「大堀切」と呼ばれた場所であろうと思います。

ちなみに、かつての利根川+荒川の西岸には、葛西城がありました。国府台城が下総の西の最先端なら、葛西城は武蔵の東の最先端となりますが、両城の間は直線距離でおよそ4km足らず。国府台合戦の頃には、お互いの城郭からお互いの城郭が、手に取るように見ることができたことでしょう。

 

2.第1次国府台合戦

第1次国府台合戦は、北条氏綱・氏康父子と、小弓公方足利義明と里見義堯(よしたか)、武田(真里谷)信応(のぶまさ)の連合軍とが天文7(1538)年に衝突し、北条氏側が大勝した戦いです。北条氏は古河公方足利晴氏の命によって戦ったため、この戦いは一般に、古河公方と小弓公方との戦いであったと理解されています。

小弓公方足利義明は、晴氏の祖父で古河公方であった足利成氏の息子ですから、義明と晴氏は叔父と甥の関係です。ただし義明は、他の多くの足利一族がそうであるように、成氏とも兄弟の足利高基(晴氏の父)ともしっくりいかず、真里谷武田氏の誘いに応じて小弓に居座り、「公方」を名乗りました。そんなわけで足利義明のことを小弓公方と呼ぶわけです。どういうわけか足利氏は、初代将軍の足利尊氏の時代から、最後の将軍・足利義昭に至るまで、自尊心いっぱいの野心家ばかりが揃っている感があるのですが、その中でも義明は輪をかけた野心家で、おまけに自信家でもあったようで、自身を招いた真里谷武田氏をいつの間にか押しのけて、着々とその勢力を拡大します。

「公方」という存在は、ある種の権限をもって「君臨」することでその権威を保ちます。その権限のひとつが「紛争調停力」であり、お家騒動が日常茶飯事だった房総半島は、公方にとって「君臨」しやすい要素が揃っていました。義明は、真里谷武田氏と里見氏の内訌をバネに力をつけ、少なくとも関東の3分の1くらいはその影響下に置いた模様です。義明の勢力が拡大するにつけ、古河公方は強力なライバルとして強く義明の心に留め置かれ、いつかは古河公方を乗っ取るとの野心に繋がっていっても、何の不思議もなさそうです。

第1次国府台合戦当時、小弓から進軍した義明軍の最終目的地は「鎌倉」であったとする説も存在しますが、現在は複数の古文書の存在により、当面の目的地が関宿であったとの説が提唱されています。既に述べた通り、国府台から関宿までは国府台から一直線に伸びる台地の延長線上にあり、その目と鼻の先はもう古河ですが、関宿と古河の間には現在の利根川のような大河川がなく、簡単に行き来ができる状態にありました。義明、たぶん本気で古河公方を攻める気だったと私は見ています。

ところが、ここで義明にとって不幸な出来事が重なります。ひとつは頼みの里見軍、武田軍に全く戦意がなかったこと。この要因はいろいろあるようですが、そもそも傀儡でよかったはずの義明がこれ以上大きくなってしまったら、文字通り「目障り」だったというのがごく自然でしょう。また、もうひとつの不幸は、この事態の収拾のために古河公方自らが動くことはなく、小田原から北条氏がやってきたこと。これは相手が悪かったとしか言いようがないでしょう。この時代の北条氏はまだ二代目・氏綱の時代であり、武蔵に進出したばかりの時期にあって、大義名分を携えて下総に攻め入ることが可能になった点は非常に大きかったと思われます。故に北条氏綱は、弟の長綱(幻庵)の他、長男の氏康をも引き連れ、義明以上に本気モード全開でこの戦に臨んでいます。

結局第1次国府台合戦は、足利義明軍の壊滅と、義明自身の死によって、あっけなく幕を閉じます。しかもこの時、義明の長男義純も一緒に戦死し、小弓公方家は一気に滅亡してしまいますが、ただ一人生き残った男子・頼純によって、辛くも血脈が受け継がれてゆきます。この血脈が「領地なき10万石の大大名」として有名な喜連川氏となります。

3.第2次国府台合戦

第2次国府台合戦は、第1次国府台合戦から25年ほどが経過(つまり、第1次合戦より1世代分の時間が経過)した後に勃発しました。一般には、序盤戦で北条方の遠山・富永の両将が敵陣に深く攻め入り過ぎ、里見方によって相次いで討ち取られ、この勝利で油断していた里見方を北条方が急襲し、一気に形勢を逆転した戦いと伝えられてきました。若き日の北条氏政が「序盤で負けた今こそ攻め入る絶好の好機である」と味方を鼓舞し、先頭切って里見方に攻め入ったという、どちらかというと凡将との評価が先立つ氏政にしては勇ましい話も伝わっています。また、この合戦により北条氏は下総への本格進出を果たし、里見氏は逆に下総への足掛かりを失うきっかけになったとも言われてきました。

ところが、よくよく調べてみると、遠山・富永の両将が討死したのは永禄6(1563)年1月のことであり、里見方の大敗北は、どうやら永禄7(1564)年1〜2月の出来事らしいのです。北条氏は戦後処理が恐ろしく迅速で、戦いが終わるとすぐに戦功のあった諸将に感謝状を贈っていますが、この感謝状には永禄7年のものが多いのです。遠山・富永両将が戦死してから、里見方が決定的な敗北に至るまで1年以上を要しており、第2次国府台合戦は、現在では少なくとも複数の年にまたがる2回の大きな戦いの総称である、と考えられるようになってきました。

また、永禄6年正月4日付けで、北条氏康から西原某という武将に宛てた文書が残されています。これがちょっと興味深い内容になっています。

「里見方が市川のあたりに5、6百騎で陣取って、岩槻城(埼玉県)に食料を運び込もうとしているようだが、値段で折り合いがつかなくてもたもたしている。我々も出陣する。食糧は3日分もあれば十分なので、揃わなければ現地で調達すればよい。槍を持ってすぐに来い。必ず一戦交えることになるのでそのつもりで。」

この文書でまず注目すべきポイントは、「食糧は3日分」との記述です。北条方は、少なくとも永禄6年1月の戦いに際しては、初めから超短期での決戦を意図していたことになります。そして、里見方が食糧を運ぼうとしていたこと、その食糧の調達が「値段」の問題でうまくいかなかったことがこの文書からわかります。この食糧は何に用いられるものだったのでしょう。

実は、前年の永禄5年10月から、北条氏康は武田信玄と手を組んで、共同で武蔵松山城(埼玉県)を攻囲していました。武蔵松山城主の上杉憲勝は越後の上杉謙信に救援要請を発し、謙信はすぐさま駆けつけます。謙信は関東諸将に松山城救援を呼び掛けますが、これに対しかねて「房越同盟」により友好関係にあった里見氏は、率先して援軍の準備を進めます。この準備のため、武蔵松山城に向かうルート上の岩槻城に食糧が輸送されようとしていたのでした。

一方、武蔵松山城を攻めていたのは北条氏康だけでなく、武田信玄(影武者説もありますが)もそこに加わっています。こちらはこちらで甲相駿三国同盟に基づき、北条氏が武田氏の出馬を仰いだ重要な戦いでしたから、北条としても恥ずかしい戦はできません。とはいえ武蔵松山城はなかなかの名城ですから、そう簡単には落城しませんし、松山城が落城しないまま、上杉・里見連合軍に背後を襲われたら・・・北条氏康と武田信玄は、この時点で歴史の表舞台から姿を消したかもしれません。岩槻城への食糧運び込みと、里見氏の進軍は、北条氏にとって何としても止めなければならない重要なテーマでした。

勝たなくてもよい。3日だけでも、里見氏を下総に釘付けにできれば・・・

戦国時代には、ほんの数日でも進軍を止めることができれば、その後の戦局に大きな影響を与えることがしばしばありました。最も有名なのは関ヶ原に向かう東軍主力の進軍を止めた上田城の真田氏ですが、同じ関ヶ原の時、逆に西軍の進軍を止めた大津城の京極氏、もう少し遡れば、島津氏の九州制覇をわずか763名で食い止めた岩屋城の高橋氏等もその類と言えるでしょう。遠山・富永両将は、今おかれている北条氏の立場を熟知した上で、身を挺して里見氏の進軍を止めたのではないでしょうか。

この戦いの結果のせいとばかりは言い切れないまでも、事実として里見氏は上杉氏との合流が遅れ、武蔵松山城の救援に失敗します。話は脱線しますが、上杉謙信は地団駄踏んで、腹いせに近隣の騎西城(埼玉県)を踏み潰して引き揚げたと言われています。騎西城にしてみれば、いい迷惑です。

翌・永禄7年の戦いは真っ向勝負となったようで、戦闘はおよそ1か月継続した模様です。その結果、里見、正木氏の一族等多くの戦死者を出した里見方が退却し、国府台合戦は終わりを告げます。

永禄6年の戦いの真の勝者が誰であるのかという点には議論の余地がありそうですが、仮に上の推論が正しいのであれば、北条氏は戦略上、勝者となります。ものは考えようですが、北条氏は、3回の戦いにすべて勝利したと言ってもよいのでしょう。なお、この間に岩槻城では、反北条方の有力武将であった太田資正(三楽斎)が、実の息子の氏資に裏切られ、城を乗っ取られ、追放されるという事件が発生します。北条氏の鮮やかな戦略をまざまざと見せつけられた若き氏資が、古くて頭の固い頑固おやじを追い出すという微笑ましい(?)事件であり、その後の北条氏の隆盛を思えば間違った選択ではなかったようにも思えるのですが、氏資はその後、下総の三船山というところで里見方に囲まれ、あえなく討死してしまいます。人生の選択とはかくも難しいものか、と思うことしみじみです。北条氏の下総支配は国府台合戦で単純に進捗したものではなく、制圧には相当な時間と労力を要しています。

さて、話が前後しますが、岩槻城に食糧を運び込もうとした里見方は、値段の折り合いがつかず、国府台でしばし立ち往生します。一方、北条方は、諸将に「食糧は現地調達せよ」と言っているので、こちらはトラブルを想定していません。どうも臭いです。北条方の黒幕として、商人たちにコメを売らせなかった人物がどうやら存在したようで、どうやらそれは、小金城(千葉県)を本拠とする高城氏であったように見受けられますが、このあたりはこのへんで留めておきましょう。

 

4.むすびにかえて

ランチ&デザートは城を見るオフのはずなのに、国府台城についてはほとんど語ることがありませんでした。肝心の国府台城は、太平洋戦争の高射砲陣地として、また公園として激しく改変されており、往時の姿を偲ぶのがちょっと難しいお城となっています。それでも、古墳を利用した土塁や堀、道路になった堀切の跡等、その気になれば随所に城らしさを感じ取ることができます。

北条と里見。古河公方と小弓公方。これもここでは触れませんでしたが、里見氏も真里谷武田氏も、それぞれ多数のお家騒動を抱えながら、外敵とも戦っていました。武田信玄や上杉謙信をも巻き込んで、武将たちがそれぞれの思惑を胸に駆け抜けた場所。国府台に立ち、そうした歴史の息吹を肌で感じられたら、それはそれでなかなか幸せではないでしょうか。

 

参考資料:千野原靖方「国府台合戦を点検する」(1999年、崙出版)







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