「石垣山城・・・戦国最大のカウントダウンコンサート」

〜mixiコミュ 「お城めぐりしよう!」オフ会:城跡deランチ&デザート(第4回)の添え物として〜

初稿公開日:2010.5.2

世にも名高い「一夜城」の伝説を持ち、「石垣山一夜城」とも称される石垣山城が、今回のランチ&デザートの舞台です。もちろん、これほどのお城が一夜で築けるはずがありません。ここでは「小田原の役」という巨大な軍事行動を、石垣山城の完成をクライマックスとするカウントダウン劇に仕立て上げてしまった稀代の演出家・豊臣秀吉の軌跡を振り返りつつ、石垣山城の舞台裏についてちょっと真面目に考察するとともに、現在残る遺構の見どころについて語ってみることにします。

1.石垣山城の築城
(1) 小田原の役とは
言うまでもなく、石垣山城は豊臣秀吉が小田原の後北条氏を討伐するために、小田原城に対峙する形で築かれた「陣城」です。関東で自主独立国家としての路線を維持したい後北条氏と、全国統一を実現したい豊臣秀吉との駆け引きと、その是非論については大胆に省略するとして、まずは小田原の役の発端から小田原城の開城までの経緯を簡単におさらいしておきましょう。
天正17年(1589)10月、後北条氏の重臣であった猪俣邦憲が、上野国(群馬県)の名胡桃城を占領します。この行為が秀吉の逆鱗に触れ、小田原征伐の直接的な原因となりました。12月には秀吉の支配下にある全国の諸大名に出陣命令が下り、翌・天正18年(1590)の正月には徳川家康が出陣し、3月2日には秀吉自身も出陣しています。後北条氏は箱根の山に大防衛線を展開し、ここで豊臣方をある程度釘づけにすることを画策しますが、豊臣方は圧倒的な兵力をもって、まず3月29日に山中城(第2回ランチ&デザート会場)、4月1日に足柄城(第1回ランチ&デザート会場)を陥落させます。秀吉は、早くも4月2日には石垣山に到着し、この地への築城を命令します。「北条五代記」や「当代記」では、石垣山城の築城開始を4月6日としているようです。
その後、戦線が膠着状態となったことに業を煮やした秀吉が、八王子城への力攻めを指示し、6月23日には八王子城が陥落します。その3日後の6月26日には石垣山城が完成し、小田原側に面した樹木が一斉に取り払われました。ここから事態は急展開し、小田原城は最終決戦を迎えることなく7月5日に開城します。秀吉の出陣から数えて約4ヶ月後、石垣山への着陣から約3ヶ月後の出来事です。

(2) 誰が石垣山城を築城したのか
ところで、誰が石垣山城を築城したのでしょうか。豊臣秀吉です・・・いや、そういうことではなく、実際に築城したのはどこの誰なのか、というのがここの本題です。秀吉は、備中高松で地元の農民たちを銭で雇い、水攻め用の土塁を完成させた実績の持ち主です。また、鳥取城攻めでも三木城攻めでも、大規模な「陣城」を構築しています。が、石垣山は何しろ後北条氏の本拠地です。後北条氏のお膝元で任足を雇い入れることは困難だったことでしょう。しかも、この築城はあくまでも秘密裏に行われなければならかなったはずです。地元の人間に知られてはいけないわけです。この城は、誰が実際に築城したのでしょうか?
出典がまだ確認できていないのですが、どうやら秀吉は西国大名の多くを、兵隊ではなく人足として出動させていたような節があります。すなわち「南海道は普請の衆」との記録が残っているのがそれで、一説には西国兵4万人がまるまる石垣山の築城に携わったようです。更には「穴太衆」と呼ばれる石垣職人や、瓦職人、城大工等の築城専門部隊も、始めから戦列に加わっていたような節があります。
すなわち、秀吉は出陣前から「瓦葺きの建物(天守?)を持った石垣造りの城」を作る気満々で小田原に乗り込んできたと見るべきであり、秀吉の命を受け、西国の兵たちがせっせと土を運び、石を積んだというのが実態のようです。石垣山城は、関東にありながら関東の人間の手がほとんど入っていないという、極めて特異なお城です。

(3) 稀代の演出家、豊臣秀吉
いわゆる「一夜城」伝説ですが、城攻めに「陣城」が用いられるのは普通のことですから、後北条氏側も豊臣方が陣城を構築していることくらいは想像していたでしょうし、至近距離なので槌音だって聞こえたことでしょう。従って、後北条氏が戦意を喪失したのは、単にそこに「城」が出来たから驚いたのではなく、現れた城が本格的な「石垣の城」であったから驚いた・・・というのが真相でしょう。
ちなみに5月14日付けの浅野家宛書状の中で、秀吉は「石蔵、台所でき候、やがて広間、天守建てだし候」と記しています。「石蔵、台所」は、今に残る「井戸曲輪」のことでしょう。築城開始から1ヶ月半、小田原城の開城から逆算するとちょうど中間点に相当するあたりで、井戸曲輪の石垣が完成したことになります。
これは想像ですが、恐らく秀吉は、石垣山城の完成時期を睨みながら、完成と同時に小田原城を開城させるためのシミュレーションを繰り返していたのではないかと思います。最近の研究では、小田原城の開城があと半月遅れたら豊臣方の兵糧が尽きていた(つまり豊臣方は退却していた)のではないかとも言われているようで、仮にこれが真実であれば、秀吉は、出陣から帰陣までを概ね5ヶ月とするスケジュール設定の中で、どうしても4ヶ月目の7月中に小田原城を陥落させなければならないという至上命題を抱えていたはずです。この命題を解決するためには、まず石垣山城を1日も早く完成させること、更には石垣山城の完成による心理的効果を最大限に発揮させるために、石垣山城の完成よりも前に鉢形(北条氏4代目・北条氏政の弟である北条氏邦の居城)と八王子(同じく北条氏照の居城(ただし氏照は氏政とともに小田原城にいました))の2大拠点を何としても開城させることが必要でした。
6月14日に鉢形城が陥落した後、その報告に来た前田利家と上杉景勝を、秀吉が叱責します。
「ばかもん!早く八王子城をなんとかしろ!」(現代語訳かつ想像)
この声に恐れをなした両名は、総力を上げて八王子城を粉砕します。石垣山城の完成宣言が八王子城の陥落を待ってのものなのか、八王子城の性急な攻城が石垣山城の完成が早まったためのものなのか、正確なところはわかりませんが、結果として八王子城の陥落と石垣山城の完成が、小田原城内に最大限の衝撃を与えたことは事実です。それはまるで、大晦日のカウントダウンとともにオーケストラが名曲を奏で、曲の終わりとともに年が明けるというスリリングなコンサート「ジルベスターコンサート」さながらの緊張感です。豊臣秀吉という稀代の演出家によって、戦国屈指のカウントダウンコンサートは劇的に幕を閉じることとなります。

2.見どころ
石垣山城は、城郭研究というカテゴリーの中においては極めて貴重な城郭です。築城年代が1590年であることがほぼ確実であり、その後全くと言ってよいほど活用されていないという点で、このお城には「1590年」という特定の年代の城郭建築のエッセンスが凝縮されていると言えるからです。年代が特定できると言うのは、歴史学的にも考古学的にも極めて貴重な存在なのです。

(1) 本丸と天守台
本丸は城内の最高所にあります。南西の隅に天守台があり、裾部には今も崩れかけの石垣がごろごろしています。天守台は五層の天守が乗るくらいのサイズがあって、恐らく本当に五層の天守が建っていたことでしょう。私はまだ探したことはありませんが、天守台の周囲では瓦も採集することができるようです。
本丸の北側と東側、それぞれの入口(虎口)は、このお城の注目ポイントです。特に北側の虎口は、外に向かって折れる「外枡形」と内に向かって折れる「内枡形」という二つの枡形が組み合わされた形式になっていて、外枡形から内枡形を通って本丸に入るまでに進行方向が180度転回するという、極めて防御性の強い虎口です。

(2) 大手道、南曲輪
大手道と呼ばれる道は、両側から崩れ落ちた石材によって半ばが埋まり、独特の景観を作り出しています。本丸に向かってまっすぐに登り、本丸の手前で二度直角に折れ曲がる石段の道は、ぜひじっくり歩いて頂きたい場所です。
石垣山城の石垣には、廃城時に意図的に崩された(破城、といいます)部分と、地震等で崩れた部分とがありますが、大手道のあたりは破城で崩されたもののようです。ちなみに関東大震災の前まで、石垣山城の石垣はかなりの部分で原型を保っていたとの証言もあります。ついでに言えば、関東大震災では小田原城の石垣も壊滅的な打撃を受けており、その一部は今も崩れたままで残されています。
ちなみに宝探しをひとつ。この道沿いの石の一つに、「刻印」の刻まれた石があります。刻印の話は最後に触れますが、ぜひ探してみてください。

(3) 井戸曲輪
石垣山城最大の見どころです。石垣山城を公園として見た場合には最も奥の、今も水の湧き出る泉を囲む、二重、三重の高石垣。荒々しい石垣に囲まれたこの空間は、お城好きの心を掴んで離しません。ここは下手にあまり多くを語らずに、実際の現場を見て頂きましょう。

3.石垣山城こぼればなし
(1) 「天正19年」の瓦
石垣山城は天正18年(1590)に小田原城が開城した後、当然のように廃城になったと考えられています。小田原城が近世城郭として使用された以上、その至近にある石垣山城は不要です。小田原城を攻撃するためには格好の場所ですから、二度と使えなくように徹底的に壊されて然るべきなのですが、その割にはしっかり残っています。このこと自体も、実は謎と言えば謎だったりします。
それより、天守台近辺で発見された瓦に「辛卯八月日」と刻まれていたことが、話をややこしくしています。辛卯の年とは、この時代で言えば天正19年(1591)に当たり、小田原城が開城した翌年に当たります。わずか1年の違いですが、この1年はあまりに大きな違いです。石垣山城は、小田原城が開城した後も、一定の期間は機能し続けていたということになるのでしょうか。
ここで大胆な推論です。秀吉は、壮大なカウントダウンコンサートの幕引きに当たり、小田原城とは全く違う、新しい城下町を形成しようとしたのではないか、と考えられなくはないでしょうか。小田原城の城兵たちは、小田原城を完全に無視する形で新しい城下町が目と鼻の先に営々と築かれ始めているのを見て、完全に自身の存在意義を失ってしまった・・・残酷ですが、心理戦としては絶大な効果があります。この流れの延長線上で、石垣山城は拠点城郭として暫くは機能し続けていたのかもしれません。

(2) 「加藤肥後守」の刻印石
さきほど大手道のところでも触れた刻印ですが、実は、通路脇に「これより加藤肥後守石場」と刻まれた石が転がっているのです。この石については大島慎一氏が詳しく研究されていて、その成果が「小田原市郷土文化館研究報告 No.35」(1999年、小田原市郷土文化館)で公開されています。それによれば、加藤肥後守に該当する人物として即座に思い当たる「加藤清正」は熊本にいて小田原の役には参戦しておらず、おまけに当時の清正の肩書きは「主計頭」であり、「肥後守」になったのは慶長8年(1603)であることを突き止めた上で、この刻印を加藤清正か加藤忠広(清正の嫡子)による「江戸城築城(改築)のための採石場」を示す標石である、と結論付けています。その論旨は明快であり異論を差し挟む余地はないのですが、この場所に「加藤清正」かもしれない名前が彫られているという事実は、それだけでなんとなくわくわくするものがありませんか?


<石垣山城概念図> 参考資料 : 「小田原市郷土文化館研究報告No.35」(1999年、小田原市郷土文化館)、「鉢形城開城」(2004年、鉢形城歴史館)、「歴史読本2008年5月号『織田・豊臣の城を歩く』」(2008年 新人物往来社)、他






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