「純・戦闘型城郭〜冷酷無比なる丸子城〜

〜「丸子城をやる!」ミニオフ会の添え物として〜

初稿公開日:2010.3.6

静岡市の西の外れ、東海道なら府中の隣、丸子の宿のその奥の山の中にひっそりと佇む、丸子城。
自然歩道の中心地点として、ずっと以前から静岡市民に知られた存在ですが、訪れた多くの方が「で、城はどこにあったの?」と言い出す始末。建物がなければ「城はない」と言い切る一般的なモノの見方に従えば確かにその通りなのですが、このお城、全国でも稀に見る「純戦闘型」の城郭として、城郭愛好家の間では非常に人気が高く、「好きな城」のアンケートでも意外と多くの票が入ります。このお城の特徴は、なんといってもその冷徹な縄張り。ここでは、丸子城がいかに研ぎ澄まされた実戦的な城郭であるかについて、ごくごく簡単に解説を試みることにします。なお、文中には私見が混在しますこと、予めご了承願います。

1.概要
丸子城は、府中宿(駿府城を中心とする、現在の静岡市の中心街)から東海道を西に進み、丸子宿を経て宇津ノ谷峠を越える手前の、山に挟まれてぐっと狭くなった、ちょうど喉元の辺りに立地しています。
戦国期におけるこの地域の政治・経済の中心地であった駿府を守る上での重要な拠点として、この山には早くから城郭が構えられていたことでしょう。その割には歴史書等への記述が少なく、連歌師の宗長が記した「宇津山記」に、「駿河国宇津の山は、今川被官斎藤加賀守安元しる所より(中略)、北にやや入て泉谷といふ安元先祖よりの宿所」とあることから、15世紀にはここに斎藤氏の拠点があったことがわかります。また、今川竜王丸(後の今川氏親)がお家騒動を避け、幼少時に隠れ住んだのも丸子でした。竜王丸の叔父で、竜王丸を今川氏の当主とすることに力を尽くし、その功をもって興国寺城(静岡県)を賜り、伊豆国、更には相模国へとその勢力を伸ばしてゆくのが伊勢宗瑞=北条早雲です。何百年か前、恐らく北条早雲も丸子城の辺りを歩き回っていたことでしょう。
丸子城が歴史書に再登場するのは、守護大名としての今川氏の滅亡を待たなければなりません。戦国大名・今川氏の最後の当主である今川氏真が駿河から追放された後、暫くの間、駿河は武田氏が領有するところとなります(余談ですが駿府館(今の駿府城)は、今川氏の館だった時代から一足飛びに徳川氏の駿府城へと改築されたような感があるので、駿府周辺が武田氏の統治下にあったということは、地元の人間にもほとんど忘れ去られています)。永禄11(1568)年には武田氏の重臣・山県昌景が、2,500人の兵を従えて丸子城に陣取った、との記録があります(「武徳編年集成」)。それから天正年間に入り、武田対徳川の緊張が高まるにつれ、丸子城には武田氏による修築が加えられて、今見る姿に近づいていったと考えられます。ところが、丸子城には落城した記録はおろか、戦いが行われた形跡すらありません。丸子城は松平備後守が入城したとの記録を最後に、徳川家康の関東移封とともに、その役割を終えることとなったようです。
このように丸子城は、武田対徳川の激戦の最中にあっても、これほどの実戦的な構えを有しながら、少なくとも歴史書上では一度も戦った形跡がないという、非常に珍しい城郭です。

2.構造
丸子城は、何しろよく出来ています。どんなふうによく出来ているかというと、何しろ冷酷無比なのです。城郭を考える上では、「この城は何を守ろうとしているのか」という点について、十分に考えを巡らせる必要があります。城にもいろんな目的があって、多くの城は「城を守るため」に築かれています(「城堅固の城」と呼びます)。城に拠る人々=それは在地の領主だったり武士団だったり、場合によっては城のある地域の村人すべてだったりします=を守るために築かれる城郭です。ところが丸子城は、ある場所に陣取ることを命じられた兵士は、刀折れ、矢尽きるまで獅子奮迅の働きをした後、脱出することも叶わずに玉砕することを運命付けられています。この構えは、丸子城が「城を守る」ためではなく、城のある「地域(=ここでは駿府の地)を守る」ために築かれたものであることを示唆しています(「所堅固の城」と呼びます)。戦国の世が終わり、天下泰平の世になるにつれ、城郭は更に一段と進化し、国の中心にどっかりと大城郭を構えることにより、もはや国自体が攻められるものではない、との象徴に生まれ変わります(「国堅固の城」と呼びます)。丸子城は、このような城郭の分類上、「所堅固の城」の部類に入ります。
では、丸子城の構造を眺めてみます。曲輪の名称は出典によって異なるため、概ね「静岡県の中世城館跡」(1981年、静岡市教育委員会編)に拠っています。

(1) 大手口〜三の曲輪
現在「駿府匠宿」のあるところから胸突き八丁の坂を登った先に、小さな祠が建っています(丸子城で最も苦しいのはこの場所ですから、最初だけ我慢しましょう)。ここが外郭とか大手前曲輪と呼ばれている場所です。私が初めて丸子城を訪ねた1980年頃(今から30年前!)には、この辺りの森林はもう少し若く、外郭の手前を斜めに横切る堀が今よりもよく観察できました。
外郭の先からは、目を見張るような遺構の連続です。右手に大きく弧を描く三日月堀と、食い違いを持たせて左に展開する竪堀とに挟まれた土橋部分が、大手口と推定される部分です。三日月堀を含め、丸子城の多くの堀が垂直の壁をもつ「箱堀」である点には注目しましょう。
大手口から二つ三つの小曲輪を経て、三の曲輪に出ます。「今川氏時代の本丸」と称されることもありますが、あまり根拠はなさそうです。三の曲輪と小曲輪には、右側(北側)にだけ大きな土塁が付けられています。それぞれの入り口は、不完全ながらも「枡形」が形成されているようで、門を補強したであろう、石垣らしき石列もあります。無性に掘ってみたくなる場所です(笑)。ちなみに丸子城は私の知る限り、発掘されたことがありません。掘ったら何が出てくるのでしょう。
三の曲輪で山の尾根が大きく曲がっているため、進路はそれまでの西向きから南向きへと変わります。

(2) 二の曲輪〜本曲輪
三の曲輪を出たところから、道は二手にわかれます。右手の道は本曲輪までの各曲輪を貫通しており、左手の道は各曲輪の下を通ります。右手を選べば土橋を通り、この城のポイントの一つである横堀と「銃座」(後述)を見ることができ、左手を選べば迫力満点の竪堀を覗き込み、あるいは曲輪間の堀切を下から見上げることができます。どちらも捨てがたいルートです。本曲輪は武田氏時代の本丸、とも呼ばれる場所ですが、そもそも昔から本丸でしょう。東、西及び北にそれぞれ虎口があり、立派な枡形が形成されていたことが推察されます。この本丸の東側には馬出がひとつ附属しており、その下にも多くの曲輪と横堀が残っています。かなりの見所ですが高低差が激しいので、下りた後に登るのが結構しんどい場所です。

(3) 横堀と「銃座」
さて、横堀について、説明しないわけには参りません。丸子城は全体に、西側と北側に向けた防御が厚い形になっています。東側と南側は傾斜が急で、それほど強固な防御は必要なかったことに加え、そもそもこの城は西向きに築かれていることによるものです。西側を貫く横堀は、本曲輪の直下から三の曲輪の手前まで、多少の「折れ」を持って繋がっており、直線距離にしておよそ150mを計ります。近隣でこの規模の横堀を持つ城は、武田氏と徳川氏が何度も激戦を繰り広げた高天神城(静岡県)くらいしか見当たりません。
この横堀には少なくとも2ヶ所、「銃座」としか呼びようのない、小さな丸い区画が存在します(丸子城のこの部分を「銃座」と呼称するのは一般的ではありませんが、本文では以後「銃座」で統一します)。特に北側の銃座が明瞭です。「銃座」には両脇に接する横堀から出入りしていたものと思われますが、攻城戦の終盤になって、横堀が攻城兵に占領された瞬間、「銃座」の兵士は逃げ場を失います。簡単に言えば、見殺しです。「銃座」は、このお城が機能していた時代から、きっと異様な殺気を放っていたことでしょう。容易には近づき難い殺気。これもまた、丸子城を攻めるに難い城として、戦跡の残らない城郭にした所以ではなかろうかと思います。「エリア55」(大リーグ・マリナーズのイチローがライトにいると、矢のような本塁への返球を恐れて、どの走者も三塁に踏みとどまることから、彼の背番号にちなんで、イチローの守備範囲をこう呼んでいます)みたいなものです。このような「銃座」は、新府城(山梨県)の外堀に類似例が2ヶ所あり、それぞれ東西の「出構え」と呼ばれています。

(4) 大鑪(おおだたら)曲輪近辺
丸子城の西南に位置する丸い曲輪を、特に大鑪(おおだたら)曲輪と呼んでいます。いつ見てもこの曲輪の看板は倒れて落ちていたような気がします。本曲輪から一段低い腰曲輪を経て大鑪曲輪に至るのですが、腰曲輪と大鑪曲輪との間の高低差も結構あるので、この曲輪を馬出と見るのか、先の「銃座」の少し大きいものと見るのかは、意見が分かれるところです。いずれにしてもこの曲輪を囲む丸い堀は、実に綺麗に丸く回っているので、このお城の見所の一つになっています。
この丸い堀と土橋を挟んで接続する長大な竪堀も、見逃せない大きなポイントです。この竪堀は、麓までそのまま達するのではないかというくらい、真っ直ぐに、どこまでも掘り込まれています。山の斜面を横に移動することは、この竪堀により、完全に不可能になっています。丸子城には至るところに竪堀が掘られていますが、規模としてはここが最大です。この規模の竪堀を持つお城となると、私の知る範囲では岩櫃城(長野県)くらいでしょうか。
なお、ここまで類似例として示されたお城は、高天神城にしても新府城にしても、みんな武田氏の手にかかったことが明らかなお城です。新府城のプラン形成には真田昌幸が大きく関わっており、その真田昌幸が精魂込めて築き上げたのが岩櫃城ですから、丸子、高天神、新府、岩櫃の4城には、共通点があるのがむしろ当たり前のような気がします。

3.専門的戦闘集団・武田軍団(まとめにかえて)
(1) 「銃座」の持つ意味
前述の通り、丸子城は冷酷無比な守備体制を前面に押し立てることによって、攻城側の攻城意欲を失わせる狙いがあったものと思われます。とはいえ、実際に攻められた場合、「銃座」のような先鋭的な守備体制は、多勢による攻撃に対しては何の効果も発揮しないばかりか、逃げ場さえも失いかねないもろさを併せ持っていると言えます。「銃座」を守ることを命じられた兵は、ここを自らの最後の地と定めたことでしょう。私はここに、戦国時代の兵制の劇的な変化を読みとることができるのではないか、と思っています。
室町時代の武士団は、鎌倉時代以来の封建制度の中で、「御恩」と「奉公」による主従関係により維持されてきました。武士とても、平時には農業に従事していることも少なくありませんでしたし、そもそも戦時となれば、農民だって兵として徴用されるのが普通でした。彼ら農民層は、被支配層ではありましたけれども、江戸時代の百姓ほど虐げられていたわけではなく、一向一揆や土一揆、逃散(土地を捨てて耕作を放棄し、年貢の納入を完全拒否する、一種のストライキ)といった実力行使に踏み切ることも珍しくなかったほど、支配層に対する独立意識は高いものがありました。そんな農民層を篭城戦に巻き込む際、支配者層の大義名分は「俺たちの村を守る」であり、篭城戦を耐え抜いた暁には、元の田畑に戻れることが大前提となっていました。そうなると、命が惜しい農民層が、この「銃座」を守れとの命令に服するはずがありません。
では、「銃座」を守ったのは誰かと言えば、戦国後期に大発生する、「足軽」と呼ばれる専門的戦闘集団なのです。足軽は、身分的には武士の最下級に位置しますが、正真正銘100%の武士であって農業には従事せず、純粋な戦闘集団として戦国大名ごとに編成されていました。こうした専門的戦闘集団を貨幣(金)で雇い入れ、日常的な調練を施すことによって最強無比の軍団を編成したのが、いわゆる風林火山の武田軍団です。甲州兵、強いわけです。ちなみに徳川家康は、無骨さ純粋さ忠実さが売りの三河兵と、最強無比の専門的戦闘集団の甲州兵の両方を旗本に抱えることになります。徳川の天下を支える無敵の徳川直属軍(いわゆる旗本八万騎)の基盤は、こうして形成されました。足軽達が戦う根拠は土地ではなく「金」(時には天下や一国一城の主といった「功名」であったことでしょう)であり、自身の家族とその子孫を守るために戦うことになります。自分が死んでも自分の軍が勝てば、家族は一生食えるという仕組みです。命がけですが、その命は多くの人間の幸福を約束します。土地に縛りついている武士団とは、考え方が根底から違います。こういう兵をどこよりも多く抱えた武田軍団だからこそ、あんな冷酷な「銃座」を平気で作れるのではないでしょうか。

(2) 「箱堀」の存在
武田氏の城郭の冷酷さを示すポイントがもうひとつ。それは、「箱堀」の存在です。静岡県内の、武田氏の手による山城は、この丸子城にしても高天神城にしても、諏訪原城にしても小山城にしても、すべて箱堀です(小山城は公園化に際し、堀の壁面に傾斜がつけられました)。落ちたら絶対に這い上がれない、頑固すぎる箱堀。私の知る限り、関東に多く分布する後北条氏の城郭では、箱堀はあまり使われていません。堀の形状ひとつにも、武田軍団の強さと冷酷さが滲み出ている、と言ってしまっては言い過ぎでしょうか。

参考資料 : 「静岡県の中世城館跡」、「静岡県古城めぐり」、「静岡県の城物語」、「戦国の堅城U」、他






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