「茅ヶ崎城の年代観」

〜mixiコミュ 「お城めぐりしよう!」オフ会:城跡deランチ&デザート(第3回)の添え物として〜

初稿公開日:2009.9.26

中世城郭「茅ヶ崎城」は、昔から城郭研究家の間では関心が高く、「茅ヶ崎城を見ずして中世城郭を語ることなかれ」という格言があるとかないとか。本稿では、茅ヶ崎城を巡るこれまでの研究報告を踏まえ、論点を整理したいと思います。なお、時に大胆に私見を織り交ぜておりますこと、ご了承頂ければ幸いです。

1.概要
現代の茅ヶ崎城はいわゆる「駅近物件」で、訪ねるのも非常に楽なお城になりましたが、中世の茅ヶ崎城もなかなかどうして、主要街道である「矢倉沢往還」(概ね現代の国道246号線)と「中原街道」(こちらは今でも中原街道)の双方を臨む、格好の立地となっています。
街道監視の城。ついでに言うと北向きの城。これが茅ヶ崎城の立地上のコンセプトであることは、ほぼ間違いないでしょう。
茅ヶ崎城の基本構造は、比高20mほどの丘の最上段にほぼ東西一列に並ぶ東郭、中郭、西郭を、中段として中郭の北に北郭、東郭の北側に東下郭(腰郭)を、下段として北郭と腰郭の北側に東北郭(外郭)を配する、六郭構造であったようです。平成2年(1990)以降、実に20年近くをかけて通算7回実施された発掘調査の結果、これらの郭は一時期に作られたものではないことがわかっています。
茅ヶ崎城の歴史ですが、残念ながら、このお城が文献上に登場することはありません。永禄2年(1559)に作成された「小田原衆所領役帳」なる記録に、「座間 52貫200文 茅ヶ崎」とあるのが唯一の記述です。これにより、茅ヶ崎に座間某という武将がいたことはわかりますが、52貫とは100石そこそこ、騎馬武者に換算すれば1騎(!)にしかなりません。座間さん、城主や城代が務められるような身分ではなさそうです。そこで、茅ヶ崎城を含むこの地域の動きを、茅ヶ崎城からほど近い「小机城」の記録で補ってみましょう。
文明10年(1478)には、かの太田道灌が豊島泰経の逃げ込んだ小机城を攻撃しています。「小机はまず手習いのはじめにていろはにほへとちりぢりとなる」の歌が詠まれた戦いです。歌を見る限り、道灌さん、小机城を舐めきっています。
永正13年(1516)には、伊勢宗瑞(北条早雲)が宿敵・三浦道寸を新井城(神奈川県)に討ち果たし、相模から武蔵国境近辺までをその支配下に置きます。細かい話はさておき、これにより、この地域は三浦氏や扇谷上杉氏といった「旧勢力」から、後北条氏という「新勢力」に置き換わります。
最後は天正18年(1590)の小田原の役で、この時、小机城主であった北条氏光は足柄城(第1回ランチデザート開催地)に「単身赴任」しており、山中城(第2回ランチデザート開催地)の陥落の報を聞き、早々に足柄城を退散して小田原城に引き返していますが、小机城は城主不在のまま無血開城しています
文明10年が15世紀後半、永正13年が16世紀前半、天正18年が16世紀後半、です。つまり、この地域に城郭が必要となるような何事かの異変があったのは、この3期ということになりそうです。

2.構造
次に、茅ヶ崎城の構造を郭ごとにご説明します。ちょっと細かいですが、茅ヶ崎城の年代観を探る上で、これが非常に重要な作業なのです。しばしお付き合い下さい。

(1) 東郭
東郭は城内で最も高い位置にあります。平面図で見ると「角が丸い」(一般に古い)のが特徴とされています。茅ヶ崎城の本丸は、ものの本によって東郭だったり中郭だったり西郭だったりしますが、個人的には東郭が本丸であったと思っています。
西側の中郭との間は堀切によって区画され、堀切の中央には「土橋」が設けられています。土橋は通常「掘り残される」形で作られますが、ここの土橋は堀を埋めて作られています。つまり、当初は東郭と中郭を直接繋ぐという構想がなく、「後から作られた」土橋ということになります。
東郭の入り口は堀切の南端から斜面を上がっていく形になっていますが、その南側には「外枡形」とも思える虎口状の遺構(南虎口推測地)があり、敵兵がここから侵入した際には、東郭から駆け下りてその側面を衝けますので、この部分はなかなか高度な(つまり新しい)縄張りといえそうです。

(2) 中郭
中郭は城内の中央に位置し、かつ、城内で最も広い曲輪です。現在は、こちらを本丸と解釈する方が主流のようです。立派な土塁に囲まれていて、南側の土塁は特に厚く、南西隅が櫓台のように一段高くなっています。中郭は最も熱心に発掘調査がなされ、根石(礎石)を持つ建築物が複数回に亘って作られたことが判明しています。また、焼けた壁土も出土しています。
なお、発掘調査によって中郭東寄りの場所から「未完成の堀」が検出された点は注目に値します。「未完成の堀」は現在埋め戻されていますが、中郭の南北の土塁がほぼ同じ場所で切れていますので、その位置が概ね推測できると思います。「未完成の堀」は、既存の建物跡と土塁を切断して南から掘り進められ、北まで辿り着かないうちに工事が中断されたようです。東郭と中郭を繋ぐ土橋が「後から作られた」ことを考慮すれば、東郭から土橋を経て「未完成の堀」に囲まれた空間(これは明確に「馬出し」の構築を意図したものと考えています)を作るというプラン自体も「後から作られた」ものであると考えられます。城郭の基本プランを変更し、既存の土塁を壊してまで「馬出し」を作ろうと決断したが、工事は未完のまま・・・茅ヶ崎城にそれだけの変化をもたらした重大な事由といえば、「小田原の役」以外にはないのではないでしょうか。
西郭との間は直線的な堀で仕切られていて、見事な「切岸」を形成しています。このお城の中で最もお城らしい部分です。もともと中郭と西郭はひとつの大きな曲輪で、この堀によって人工的に二つの郭に仕切られました。ただ、この堀が「一直線」であることがちょっと気になっていて、台地を人工的に切断する際には、大庭城(神奈川県)に見られるように、一ヶ所くらい「折れ」を入れるのが普通ですから、中郭と西郭が仕切られたのは比較的古い時期(16世紀前半)なのではないかと考えています。

(3) 西郭
西郭は、東側の南北幅が中郭と同じですが、南西の角が凹んでいます。この凹みをどう見るかがかつては重要で、これを「直角の折れ」(注)と見ればこの城は一般に戦国末期(16世紀中〜後半)の遺構となり、そうでなければそうでなくなると考えられてきました。同じように、中郭から西郭の南側の堀(現在は通路になってしまい、堀らしくなくなってしまいましたが)と、その外側の土塁(これも見にくいので見逃さないように気をつけましょう)を「比高二重土塁」と見れば、この部分は戦国末期の遺構といえそうです。最近では「角馬出や直角の折れ、畝堀に比高二重土塁ときたら後北条!」みたいな縄張論が、反証の提示によって次第に後退しているのが現状ですが、かつてこの城が「典型的な後北条の城」と位置づけられていた際には、「後北条の城には比高二重土塁があるから、茅ヶ崎城は後北条の城だ」とか、「後北条の城には比高二重土塁がある。なぜなら茅ヶ崎城には比高二重土塁がある」とかいった、どちらがどちらだかわからないような議論が展開されました。ここではこうしたいわゆる「後北条の城」論争については割愛しますが、個人的には、「後北条の城には直角の折れや比高二重土塁や畝堀が多い」という程度の解釈は間違いではないと思っています。なお、これは余談ですが、平成3年(1991)に刊行された「茅ヶ崎城」(横浜市埋蔵文化センター)では、東郭の東北斜面に存在した竪堀(現在は消滅?)に「畝状の仕切り」が認められるとの報告がなされており、このあたりも「後北条」を意識したものと思われます。
西郭の南側にはやたらと厚みのある土塁があって、これは土塁というより曲輪自体が上下二段になっていると言ったほうがよいくらいです。ちなみに中郭の土塁も西郭の土塁も、堀を掘った残土を積み上げて築かれています。
西郭の北側には、幅の狭い堀(現在は消滅)があって、土橋で外部と接続していました。西郭の北側に現存する土塁が一ヶ所切れていますので、現況からも土橋の位置を推測することができます。また、西側にも狭い堀があったことが発掘調査により確認されています。
先ほど、西郭と中郭との堀が「一直線」であるという話をしましたが、この堀は西郭と中郭のさらに北側で一回だけ「折れ」ています(北虎口推測地)。これを「食い違い虎口」と見れば、南虎口推測地と同様、こちらも大変高度な縄張りということができます。

(4) 北郭
北郭は、東郭から西郭を結ぶ主尾根のラインより一段低いところにあります。中郭の北側ラインと北郭の北側ラインが平行線となっており、北郭の幅と中郭の幅がともに約70mと等しく、計画的に構築された様子が伺えるため、現在の中郭-西郭-北郭はひとつのプランのもとに構築されたものであると推察されます。その時期は、中郭と西郭が切断された時期と同一、すなわち16世紀前半と推定しています。
北郭の北側には横堀がありましたが、現在は道路で削られています。その道路に向かって、土橋の跡が微妙な形で残されています。この土橋の内側には門の跡が検出されていて、西郭同様の「平虎口」であったことがわかっています。各曲輪に入る虎口に細工が少ないのも、茅ヶ崎城の特色と言えるかもしれません。ちなみに中郭の虎口は調査が行われていません。

(5) その他
腰郭は大変狭い曲輪ですが、東郭の直下にあって、高い土塁で囲まれていますので、単なる腰曲輪というよりは、この空間には相応の役割があったことが推察されます。東端には櫓台のようなものがあって、その手前で土塁が切れていますので、個人的にはこの腰郭は「通路」の役割を果たしていたのではないかと考えています。腰郭に入るには、まず左からの櫓台の脅威に晒され、虎口から侵入すると、正面には東郭の切岸が聳えており、右手に折れて北郭への進路を取らざるを得ません。そうした構造から、腰郭自体が枡形虎口であったと言っても差し支えないような気がします。
北郭の更に北側には、一段低いところに外郭が構築されていました。この地域は現在住宅地となっていて、未調査区域も多いのですが、土塁の一部が残存しているのを北郭から臨むことができます。

3.茅ヶ崎城の年代観(まとめにかえて)
茅ヶ崎城はよく調査がなされていますが、その全容の解明にはまだまだ調査が必要なお城です。
この城には、北虎口推測地、南虎口推測地、腰郭(ここは私の推測ですが)という、防御性に優れた「先進的な」虎口を有する一方、それぞれの郭の入り口には特に技巧的な部分はなく、各郭が半ば独立した形態を保っているという、どちらかというと「後進的な」縄張りを有しているという一面もあります。肝心の虎口推測地自体が未発掘なこともあり、この城がいつからいつまで、どうやって使われていたのかを推測するのは大変難しいことですが、同時にそれは大変楽しいことでもあります。
紙面の都合で詳細は割愛しましたが、茅ヶ崎城からの出土陶器類(かわらけ)は、その渦巻文様が韮山城(静岡県)の出土物と酷似していることから、16世紀前半までのものであることが推測されています。また、上杉謙信、武田信玄がそれぞれ関東に侵攻した際の記録には、江田、稲毛、小机、権現山、品濃坂、丸子、帷子等の地名が登場するものの、茅ヶ崎城の「ち」の字も出てきません。このあたりを踏まえ、茅ヶ崎城は16世紀前半にはその役割を終えたのではないか、という見方が主流になりつつあるようです。
ただ、個人的には、出土陶器による時代検証が「韮山城」との比較であるところがちょっと気になっています。韮山城のほど近くの堀越御所推測地からは大量の陶器が出土しており、それらとの編年比較によって韮山城から出土した陶器の年代も推測されているのですが、16世紀後半の小田原の役まで使用されたことが確実な韮山城においてさえ、出土陶器が16世紀前半のものまでしか出土しないことを考えれば、韮山城と茅ヶ崎城から「同じ年代の陶器が出た」ことを根拠として、茅ヶ崎城も小田原の役まで存続したと考える方がむしろ自然なのではないでしょうか。
また、この城には未完成ながら「馬出し」を作ろうという意図がありました。もしそれが私個人の推察の通り、後北条氏が小田原の役に備えて緊急に整備しようとしたものであれば、その工事が完成した暁には、この場所にいかにも「後北条」な感じの、真四角の「馬出し」ができていたかもしれません。もうそこまで来ると空想の領域ですが、そう考えた方が、ちょっと楽しいではありませんか。

(注):「直角の折れ」という語句は専門用語としては一般的ではありません。一般的には「横矢」とか「折れ歪」と呼ばれる構造ですが、後北条氏の手になる城郭には直角の部分が多いことから、本稿ではわかりやすく「直角の折れ」と表記させて頂きました。

参考資料 : 「茅ヶ崎城址関係文献調査報告書」、「茅ヶ崎城」、「茅ヶ崎城U」、「茅ヶ崎城V」、他







inserted by FC2 system