「難攻不落〜地中に消えた玉縄城〜」

〜玉縄城ミニオフ会の参考資料ですが、よくできているので(笑)「特集」扱いで掲載します〜

初稿公開日:2009.6.27

関東七名城のひとつに数えられ、あまたの名将の猛攻を跳ね除け、一度たりとも落城したことのない、難攻不落の堅城、玉縄城。この名城は、学校建設とその後の周辺開発により、その大半を失ってしまいましたが、その歴史的価値までが失われることはありません。ここでは、そんな玉縄城の歴史と構造、そして現状について軽くさらってみたいと思います。

1.歴史
現代に繋がる玉縄城をきちんと築いた最初の人は、かの北条早雲ということになりそうです。時は永正9(1512)年、後北条氏が関東一円はおろか、まだ相模一国も制覇していなかった頃のことです。この場所が選ばれたのは、鎌倉から至近にあることに加えて、玉縄城のある山そのものが持つ高い防御性、更には水運に恵まれていたこと等が理由として挙げられています。築城当初の最大の目的は北条早雲の最大のライバル、三浦半島の三浦氏に対抗するための前線拠点としての位置づけであり、永正15(1518)年には史書に見える最初の攻防戦が展開されます。攻め手は江戸城の上杉朝興。三浦氏の援軍として来攻した上杉氏を、玉縄城の北条氏は鮮やかに跳ね除けます。ここからが輝かしい玉縄城の歴史の始まりです。
その後、大永6(1526)年には、安房(今の千葉県の先端)から里見氏がやってきます。里見氏は鎌倉でさんざん狼藉を働き、鶴岡八幡宮がこの時に焼け落ちています。この狼藉に対抗すべく、玉縄城主の北条氏時は玉縄城を出て、現在の大船駅の近くまで前進して戦い、里見氏の撃退に成功します。この時の戦死者たちを弔ったのが現在に伝わる「玉縄首塚」で、私が知る限り、これが玉縄近辺に残る最も血なまぐさい痕跡となっています。
永禄4(1561)年には上杉景虎(謙信)が玉縄城を囲みますが、落城させることなくそのまま包囲が解かれます。永禄12(1569)年には武田信玄が相模に侵入しますが、この時は玉縄城を敬遠しています。こうして、玉縄城は一度も落城することなく、というよりその構えの堅固さゆえに、あまたの名将たちもあまり真剣に戦いを挑まないという、城郭のあるべき姿(すなわち「守り堅固にして戦なし」)を体現し、「関東七名城」のひとつに数え上げられるに至ります。余談ですが、関東七名城とは、Wikipediaによれば「川越、忍、前橋、金山、唐沢山、宇都宮、太田」なのだそうで、玉縄は入っていません(笑)。「日本三名城」(姫路と熊本は当確、あとの一つは大阪だったり名古屋だったり・・)と同様、関東七名城にもいろんな数え方があるようです。
玉縄城の城主は代々後北条氏の一族が務めていますが、最も有名なのは北条綱成(1515〜1587)でしょう。後北条氏の二代目・氏綱の養子として後北条一族に名を連ね、日本三大夜戦(「○大なんとか」ばっかりですが)の一つである「河越夜戦」の主役の一人として戦います。綱成の孫が北条氏勝(1559〜1611)で、この人が城主の時、「小田原の役」天正18(1590)年を迎えることとなります。氏勝は当初、三島市の山中城に出張して臨時城主を務めますが、同年3月29日、山中城がわずか半日で敢え無く落城した際に城を落ち(城主が城を枕に討ち死にしなかったのが山中城落城史の大きな謎のひとつ・・・です)、玉縄城に帰って再度籠城戦に入ったものの、4月21日には早くも本多忠勝の勧告に応じて開城します。玉縄城にとっては、これが唯一の敗北記録です。北条氏勝のその後については山中城の項にも記しましたが、本家の小田原北条氏が滅亡した後も、小大名としてその養子の代まで存続します。氏勝の孫娘の息子、つまり曾孫が、かの大岡越前守忠相・・・という歴史上のおまけまでついてきます。
玉縄城をめぐる戦いは小田原の役が最後ですが、その後も玉縄城自体は存続します。最初の玉縄藩主は本多正信。徳川家康の懐刀です。それから暫く松平一門が藩主を務め、最後の藩主・松平正久が元禄16(1703)年、大多喜藩(千葉県)に転封されたところで玉縄藩は廃藩となり、玉縄城もついに歴史の表舞台から姿を消します。それにしても、小田原の役から数えて113年もの長きに亘って玉縄城が存続し続けていたというのは新鮮な発見でした。玉縄城は中世城郭ではなく、近世城郭としてその幕を閉じたことになりますから。
余談ですが、江戸時代も終わりに近づいた頃、かの寛政の改革の主・白河藩主の松平定信が、当時ぽつぽつと出没していた外国船への対策として、玉縄城の再興を幕府に打診しています。これは定信自身の老中辞任により実現しませんでしたが、実現していたら今この場所には学校ではなく、正真正銘の近世城郭としての玉縄城が存在していたのかもしれません。あくまでも推測ですけれども。

2.構造と現状
(1) 本丸および腰曲輪
玉縄城は、すり鉢状の山全体をそのまま巨大な本丸として活用するという、他にあまり例を見ない構造となっています。現在、学校の敷地となっている五角形の場所が本丸で、戦後すぐに撮影された航空写真と、鎌倉市史「考古編」に記載された踏査結果からすると、本丸のほぼ真ん中で南北2段に分かれていたようで、北半分が南半分より1〜2m高かったようです。本丸の周囲は自然地形を生かした土塁が囲み、南北にそれぞれ土塁の切れ目があって、大手(南側)と搦手(北側)を形成していました。土塁の外側には堀があり、西側の堀と土塁の間には「腰曲輪」があって、両側に櫓台を持つ枡形虎口が設けられていたようです。鎌倉市史「考古編」ではこの部分を「迎撃部隊の収容のための出入口」と結論付けていますが、同編が昭和34(1959)年に編纂されたことを思えば、まさに卓見です。山中城、足柄城、小机城、本佐倉城や鉢形城等、後北条氏系の城の特徴として、遊軍の出退に用いられる「角馬出」と、虎口を守る「横矢掛り」の櫓台の存在が挙げられますが、玉縄城のこの部分は、まさしく角馬出と同様の機能を果たしていた部分ではなかったかと推測しています。
この腰曲輪は、本丸西側の土塁を崩した際に、本丸周囲の堀とともに埋められてしまったようで、今では跡形もありません。が、文字通り「埋められた」だけだと思います。実は本丸自体も同様で、学校造成の際には表土を削ったのではなく、「盛り土」をしているようです。本丸には発掘調査がなされた記録がないのですが、盛り土をしただけだとしたら納得がいきます。そういうわけで、今のグラウンドを全面発掘すると、もしかしたら本丸が完全復元できるのかもしれません。わかりませんけれども。
(2) おうまや〜円光寺曲輪
本丸の南側、現在の学校の裏門下は今も大きな平地があり、住宅地になっています。構造的にはここが実質的な二の丸であった部分です。玉縄城が機能していた当時は「おうまや」と言われていた場所のようなので、馬場でもあったのではないかと推測されています。この「おうまや」のど真ん中を幹線道路が突っ切っていて、東側は「太鼓櫓」を経て「七曲」へと連なり、西側は「円光寺曲輪」を経て玉縄城の外郭群へと繋がります。南側には堀(鎌倉市史の踏査記録を見ると、この堀と堀に伴う土塁が直角にがくがく曲がっていて、「ビバ!北条!(わかる人だけわかって下さい 汗)」の色彩を最も色濃く醸し出していたようです)を隔てて「煙硝蔵」があり、その下は急斜面となって、現在の陣屋坂に繋がります。
これらの遺構のうち現在に伝わるものは、太鼓櫓の土塁と、その土塁と本丸土塁との間にある堀切くらいですが、そのほとんどが私有地で立ち入りできない場所になっています。先に述べた「ビバ!北条!」の空堀と土塁が残っていたら、さぞ壮観だったことでしょうけれども、開発の波に飲まれて削られたり埋められたりで、今ではほぼ跡形もありません。「煙硝蔵」は、ほぼ全域がマンションに埋もれました。
(3) くいちがい
本丸の西側には「くいちがい」と呼ばれる曲輪があります。個人的にはこの「くいちがい」が直接指しているのはこの曲輪そのものではなく、先に述べた「角馬出」の虎口か、「おうまや」と「円光寺曲輪」の間の城門を指しているのではないかと思っていますが、とりあえず結構広い空間があったことは事実です。このあたりは新興の分譲住宅が並んでいますが、その背後(学校と反対側)には鬱蒼とした森が残っているので、踏査ができれば土塁くらいは見つかるかもしれません。
(4) お花畑、諏訪壇、けまりば
本丸の北側には「お花畑」と呼ばれる曲輪があります。その北側にも一段高く結構大きな曲輪があって、その曲輪と尾根続きの場所は、堀切によって丁寧に切断されていたようです。
本丸の東側の土塁・・・というより、このあたりは山そのものですが、玉縄城で最も高い場所に当たるのが、今回の見学地である「諏訪壇」です。往時には諏訪神社が勧請されていたためにこの名が付けられていたようで、最高所であるが故に、玉縄城の最終拠点(詰の丸)の役割も担っていたようですが、何しろ実際に落城したことがない城ですから、この一角に籠って最終決戦を行うような事態には至りませんでした。
諏訪壇のさらに東には、ほぼ正方形のちょっと特異な区画があります。玉縄城には「けまりば」という曲輪が存在したことが「相模国風土記」等に記載されていますが、「けまり」が「蹴鞠」であれば、この正方形の空間は蹴鞠専用グラウンド、今ならさしずめフットサル場とでも呼ぶべき場所であったのではないかと想像できます。先の「お花畑」といい、玉縄城、なかなかイケてるお城です。この「けまりば」の東にはもうひとつ小さな曲輪があって、それぞれ堀と土橋で結ばれていたようです。
諏訪壇から「けまりば」のあたりは、地図で見る限りは旧来の地形を保っているようですから、踏査することさえ可能であれば、結構面白い遺構が見られるのではないでしょうか。ちなみに諏訪壇の土塁を南に下り、本丸の東南の角に達することができれば、そこにも結構大きな腰曲輪があるはずです。
(5) 外郭
以上が玉縄城の中心部で、あとは外郭・・・ということになるのですが、この外郭というのがやたらと広いのです。中心部から西におよそ500mの場所には現在も水が湧き出す「清水」と呼ばれる地域がありますが、玉縄城の「清水曲輪」の塀の修理を要請する文書が今に伝わっていますので、このあたりも明らかに玉縄城の中、ということになります。鎌倉市の調査では、概ね1000m×1000mのエリアが玉縄城の範囲と想定されており、中心部はそのうち300m×300m程度に過ぎません。このエリアで開発が行われる際には、必ず発掘調査が実施されていることから、玉縄城にまつわる発掘調査は実に20回以上を数えますが、そのほとんどが外郭に対する調査です。外郭域内の斜面には随所に「切岸」の構造が見られ、その一部は今でも見ることができるそうです。ただし、多くの切岸は、近世城郭としての玉縄城には無用の代物であったらしく、いわゆる「破城」がなされているようです。そういう意味でも、中世城郭と近世城郭との相違点が見えてきます。時々誤解を招くのですが、特に関東においては「近世」の方が「中世」より小さな城になります。旧本丸から北を放棄して、旧二の丸を本丸にした烏山城や、主郭周辺の「中世」部分を放置した笠間城など枚挙に暇がありません。そもそも後北条氏の本城である小田原城自身が、後北条氏時代の本丸より2段も3段も下がったところに江戸時代の本丸を作っているわけですから。

3.あとがき
玉縄城はいまや別の意味で「難攻不落」の城郭となってしまったせいか、「遺構はない」という先入観が先走っている感があります。事実、「何もない」と記載されたホームページも散見されますが、何しろ巨大な城郭ですから、丁寧に探していけば、今でも結構多くの痕跡を残しているのではないかと考えています。実際に、玉縄城の保存、活用を考える団体によって、地主さんたちの了解を得ながら地道な調査が継続されており、岩をかち割った大堀切の存在や、堀切・土橋の連続遺構の存在(いずれも私有地で立ち入り禁止)なども知られています。また、鎌倉市史の編纂時にはあまり意識されていなかった「竪堀」(防御施設としての「竪堀」が真剣に議論され始めてから、まだ20年くらいしか経過していないような気がします)についても、近隣のマンション建設に伴う斜面掘削時の調査によって、意外とあちこちから見つかったりしています。格好の通勤圏内であるが故に、これらの遺構の活用・保存は容易ではありませんが、冒頭にも述べた通り、玉縄城の歴史的価値は決して失われるものではありませんし、少なくともこれ以上地表面から失わせてはいけないのではないかと思っています。
これは単なる憶測でしかないのですが、このレポートのために調査している過程で、本丸周辺は「削られた」のではなく「埋められた」可能性が高いのではないかと感じるようになりました。そうであれば、この場所の地下には、今でも玉縄城の遺構が存在していることになります。これは極論ですが、そこに学校が建ったことで、無秩序な開発から本丸周辺を守ったのだとさえ言えるのかもしれません。いずれ時を経て、本丸地域の全面発掘が実施される日がやって来て、この場所にかつて聳えていた名城が、奇跡的に蘇る可能性だって、ゼロでは・・・いやこれは妄想が過ぎました。
最後に、この城の価値を決定づけているのは、実は「山」そのものであることを付記しておきます。山の下から玉縄城のある山を見上げると、そこに城郭建築なんかあるとかないとかは関係なく、山そのものが城であることを実感できます。精一杯の想像力を膨らませて、400年以上前に燦然と輝いていた、難攻不落の巨大な城郭を思い浮かべようではありませんか。

参考資料 : 鎌倉市史「考古編」、「鎌倉市埋蔵文化財緊急調査報告書」(以上鎌倉市)、「玉縄城跡発掘調査報告書」(玉縄城跡発掘調査団)、他






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