「八王子城築城の謎と落城の意味するところ」

〜mixiコミュ 「お城めぐりしよう!」から派生した中規模オフ会の添え物として〜

初稿公開日:2009.2.7

こんにちは。この度は八王子城の見学会に参加させて頂き、誠にありがとうございます。晴れて日本百名城にも選定された八王子城ですが、その凄惨なる歴史もさることながら、大変に謎の多い城でもあります。本稿ではあまり生々しい描写を避けつつ、簡単に八王子城の歴史をおさらいし、八王子城の築城を巡る謎と、八王子城の落城が意味するところについてご紹介することにします。

1.八王子城の築城を巡る謎
現在に伝わる八王子城の遺構が築かれたのは、天正13(1584)年から、遅くとも天正15(1587)年頃のことと言われています。それからこつこつと増築を重ね、天正18(1590)年の落城時には依然として未完成だったと言われていますので、このお城は想像以上に短命です。最近では「関東の安土城」というような言い方がされることもありますが、安土城も築城からほぼ6年で焼失していますので、短命である点でも八王子城と安土城とはよく似たところがあります。
ご存知の方も多いと思いますが、八王子城が築かれる以前のこの地域の拠点は、八王子城から北東に8kmほど離れたところに位置する滝山城です。滝山城は16世紀の初頭に、後に八王子城主となる北条氏照(本人は存命中に「北条」を名乗ることはほとんどなかったようですが、わかりやすくするためここでは「北条」を用いています)が養子に入る大石氏の城として築かれた城郭で、多摩川に面した崖上に位置する点では、同じ北条氏の拠点城郭である鉢形城(埼玉県)とよく似ています。滝山城は現在もよくその旧態を留めており、複雑に入り組んだ深い堀や土橋等を堪能することができるお城ですが、これほどの名城を捨て、わざわざ八王子城という巨大な山城を築くに至った理由は何だったのでしょう?なにしろ八王子城の基本立地は「谷間を挟んだ山岳城郭」であり、戦国時代も終わりを迎えようかという時代の城郭としては明らかに逆行しています(ただし、ご主殿周辺の構造や石垣は、確かに戦国末期の完成された城館建築=安土城のような=を想起させるのもまた事実です)。
八王子城の築城の理由としては大きくふたつの説が伝えられています。ひとつは滝山城で武田氏の大軍に囲まれ、落城寸前となった経験が新城を築くきっかけになったということ、もうひとつは安土城に刺激を受けたこと、です。ちなみに滝山城が武田氏の大軍に囲まれたのは永禄12(1569)年のことで、安土城の焼失は天正10(1582)年のことですから、築城年代としては「安土城に刺激を受けた」説の方がつじつまは合います。では、なぜ滝山城の囲城戦説が出るのでしょう。ここから先は私見が入ることをお断りしておきます。個人的には、交通路の変遷が城地の選定に影響を与えたのではないかと考えています。
滝山城の立地を見ると、甲州からは秋川街道(青梅街道経由)からも甲州街道からもアクセスが可能で、二方向からの挟撃を受けやすいという弱点があったように見受けられます。滝山城が築かれた当時、小仏峠越えのルートはかなりの難所であって、到底軍勢の通れる道ではなかったようです。ところが、武田氏の滝山城攻めでは、鉢形から南下してきた武田本軍と、まさかの小仏峠越えルートを貫徹した小山田軍に挟撃され、秋川街道沿いを固めていた北条氏照は最初から裏をかかれて大苦戦に陥っています。それだけなら一時的な作戦の見誤りとも考えられるのですが、江戸時代にはこの小仏峠越えのルートが甲州往還(甲州街道)として、いわゆる「五街道」に数えられていますから、五街道が整備されるわずか30年ほど前の八王子城の時代には、武蔵から甲州を繋ぐルート自体が青梅街道から甲州街道へと大転換を遂げていたのではないかと推察します。そうなると、甲州から相模湖を経て小仏峠を越えて関東平野に突入する、まさにその喉元に位置する八王子城の立地は、実に的を射ています。逆に滝山城では、甲州街道を通過する軍勢にとっては「素通り」の対象となってしまい、何の意味も持たない立地ということになります。交通路の大転換によって小仏峠越えのルートを守る必然性が高まる一方、折しも天下は統一に向かい、相対的に関東では豊臣方の来襲に対する備えを固める必然性も高まるという一触即発の緊張感の中で、壮大な山城に籠っての長期籠城戦を意図して築かれたのが八王子城であったというのが、これほどの巨大山城が戦国末期に誕生した理由なのではないでしょうか。これは余談ですが、甲州街道は明治になってから高尾山の南を通り、大垂水峠沿いに迂回するルートへと付け替えられます(現在の国道20号線)。そのため、国道20号線イコール甲州街道だと思っていた私は、どうして街道からずいぶんと離れた場所に城を作ったのかなあ、と、長いこと考えていたのでありました。ですから、かつての小仏峠越えのルートこそ本来の甲州街道であると知った時には、目からウロコが落ちる思いがしました。

2.八王子城の最期
八王子城の歴史を一段と劇的なものにしているのは、その壮絶なる落城であることは疑う余地がありません。天正18(1590)年6月23日、未完の名城・八王子城は城主・北条氏照を小田原に残したまま、ほぼ玉砕に近い形で落城します。同年3月に始まる「小田原の役」の一連の軍事行動の中では、緒戦の山中城(静岡県)攻防戦と並ぶ、壮絶な戦いでした。ご主殿の滝の言い伝えのような悲しい話も数多く残されていますし、このあたりでは八王子城落城の6月23日になると「赤飯」を炊くという習慣が残されているとも言います。赤いご飯を見ることで、落城の日に鮮血で川が赤く染まったことを忘れまいとする風習のようです。
さて、関東地方、いや日本中を巻き込んだ小田原の役の流れの中で、八王子城の落城は重要なトピックとして位置づけられます。ここで、小田原の役における関東各地の諸城の落城日を追いかけてみましょう。山中城の陥落が3月29日で、4月1日には足柄城(静岡県)も落城しており、mixiオフ会(第1回、第2回デザートオフ)で訪ねた城は相次いで早々と姿を消しています。その後、4月19日には厩橋城(群馬県)、4月20日には松井田城(群馬県)、4月21日には玉縄城(神奈川県)、4月23日には箕輪城(群馬県)、4月27日には江戸城(東京都)、5月10日には臼井城(千葉県)、5月18日には本佐倉城(千葉県)、5月20日には岩付城(埼玉県)、河越城(埼玉県)と、名だたる城が次々と落城していきます。
ところが、よく見ると北条方の主要な城郭が未だ落城していないことに気付きます。北条氏規の韮山城、北条氏邦の鉢形城、そして北条氏照(本人は小田原城ですが)の八王子城、です。成田氏長を小田原城に送り込み、城主不在のまま忍城も残っています。これはまあ別の理由(石田三成の作戦ミス?・・・ここは「のぼうの城」の刊行の影響もあってか、別な見方がなされりょうになってきていますね。これはまた別の話)だと思っていますけれども・・・。これらのしぶとい城のうち、鉢形城が開城したのが6月14日ですから、岩付、河越が落城してから3週間以上が経過しています。5月27日には豊臣方の有力武将・堀秀政が陣中で没していますし、豊臣方にも結構な厭戦気分が漂っていたことは言うまでもありません。6月5日に伊達政宗が小田原に到着したことが豊臣方の唯一の救いといったところでしょうか。鉢形城の開城後、その報告の為に小田原にやってきた前田利家らの諸将に対し、秀吉は「遅い!」と一喝したと言われています。そして、「まだ八王子が残っているだろうが!」とも。「こりゃ大変だ。太閤殿下は不機嫌でござる。」と、前田利家は上杉景勝、真田昌幸らとともに、慌てて八王子へと取って返します。そして6月23日、運命の落城の日を迎えるわけです。
ちなみに八王子城落城の報を受け、翌24日には韮山城も開城します。八王子城で討ち取られた首ははるばる小田原に送られ、小田原城から見えるところに晒されたと言います。このあたり、なんだか武田信玄の「志賀城の首三千」の話とあまり変わりません。豊臣秀吉という武将は、城を攻めるに際して極力兵を殺さなかった武将でもありますが、そうした評判を覆してのこの行動は、それだけ実は秀吉も追い詰められていたことの裏返しではなかったでしょうか。それでも6月26日には秀吉の奇策・・・というか切り札である「石垣山一夜城」が完成し、これで漸く戦意を喪失した小田原方は、7月5日に至って開城の意思を伝え、7月11日には北条氏規の介錯で北条氏政、氏照が切腹しました。
八王子城は、総攻撃を受けてからたった1日で落城することとなりましたが、小田原の役の開始時点から通算すれば3ヶ月以上、極度の緊張状態の中、しかも城主が不在という状況下で頑張り続けたことになります。ちなみに落城時の八王子城の守備兵は4000名程度と言われていますが、落城時の戦死者は1500名程度と伝わっていますので、相当な激戦・・というよりかなり一方的な展開になったのではないかと思われます。ちょっと凄惨すぎるので、このあたりは割愛します。
最後にこれも余談ですが、このところ私があれこれ調べている藤田信吉がここでも登場します。どうやら八王子城の普請奉行の一人を懐柔して、八王子城の弱点(「搦め手」らしいのですが、これはどのあたりをさすのでしょう?まだ調べ切れていません)を聞き出し、そこから攻めることで落城が早まった、との言い伝えが残っています。松井田城の大道寺政繁を説得したのも、鉢形城の北条氏邦を説得したのも藤田信吉のようですから、この人物、裏工作専門ではありますがそれはそれでなかなか大した人物ではなかったかと思っています。

3.八王子城の見どころ
八王子城は、まともに端から端まで見ようとしたら、一日では到底回りきれる城郭ではありません。とりあえず普通の観光客はご主殿止まりでしょう。本丸まででも十分なハイキング、本丸を越えて「天守台」まで行こうとしたら、それはそれは大変です(実は私も、本稿作成時点では本丸までしか行ったことがありませんでした)。
それでも一応フルコース(天守台まで)行くことを想定すると、見どころは以下のような場所となります。

【ご主殿の周り】
八王子城の管理事務所から神社を経て、アシダ(アンダ)曲輪と呼ばれる一帯と、ご主殿までの曲輪群を眺めるのが、脚力のない人でも存分に楽しめるコースとなっています。段々に折り重なる曲輪と、ところどころに垣間見える「北条らしい」直角の折れを伴う堀や土塁だけでも、山城を見慣れた人には「おお」と声を上げたくなる遺構でしょう。ちなみにこのコース、本来の大手道から曳橋までが整備され、文字通りの「大手道」となってからは、あまり通る人も多くなくなりました。大手道は発掘調査結果に基づいて整備されていますが、曳橋だけは本来の遺構を保護する観点で、位置をずらして設置されています。現地では本来の曳橋の位置も一目瞭然ですので、お忘れなくご確認下さい。なお、ご主殿の周囲にはさりげなく石垣が点在していますが、概ね築城当時のものと見て間違いないようです。石垣といえば、私もまだ見たことがなく、今回ぜひ見て行きたいと思っているのが、ご主殿の背後にある「四段の石垣」。「殿の道」との通称を持つ、ご主殿背後からの登山道を登っていくと見ることができます。ここもあまり多くの人が訪れませんが、八王子城内に現存する最大の遺構である・・・はずです(後日談:素晴らしい石垣でした)。

【山上】
実は、山上にある本丸以下の各曲輪には、お城っぽさをあまり感じません。そもそも石垣の積み方がお城っぽくないことと、各曲輪が小さくて土塁や虎口を伴っていないので、物足りなさを感じるのかもしれません。このあたりが「未完成のまま落城した」と言われる所以でもあるのですが。ただ、お城っぽくないという感覚は、私自身が20年前に登った時の印象ですので、20年を経た今回の見学で、また違った感覚を味わうことができるかもしれません。それもまたとても楽しみです(後日談:いやいやなかなかの構えでした。20年前の私はまだまだ見る目がなかったということでしょう)。
また、ここも私自身は未踏の地ですが、「本丸」から「天守台」までの防衛ラインには、万里の長城のように石垣による防衛線を構築しようとした痕跡があるはずです。このラインは、八王子城の背後を固めつつ、眼下の甲州街道を意識したものであると考えられ、八王子城が小仏峠越えの敵軍を意識して築城されたのではないかと考える根拠になっています。ただこのあたりは実際に見ていませんので、今のところは想像でしかないのですが・・・(後日談:いやいやここはたいしたものでした。石塁ラインによる防御線、という考え方がどの程度日本の城郭に取り込まれているのかについては、まだまだ研究の余地がありそうです)

4.あとがき
雑誌「季刊 考古学」の、昭和61年の秋号・・・だったかと思うのですが、八王子城のご主殿に係る発掘調査レポートが掲載されていました。大学時代に受講していた考古学のレポートがこの「季刊考古学」所収の記事について語る、というテーマだったため、八王子城について思うさま書きなぐったような記憶があります。八王子城にはその年の秋に初めて訪れたのですが、ご主殿を見た記憶がほとんどありませんので、もしかしたら立ち入り禁止になっていたかもしれません。ご主殿の滝の写真が残っているので、間違いなくご主殿近くまでは来ているはずなのですが。ちなみに平成20年の秋、ほぼ20年ぶりに八王子城を訪ねた際には、あまりにも整備が進んだために、過去の記憶と眼前の風景とが全くリンクしませんでした。とはいえ、八王子城がこれほどまでに整備され、更には日本百名城に選定されたことには大きな驚きと大きな喜びを感じています。
戦国の世も終わりに近づく中で、名城と呼ばれた城を破棄してでも山城へと回帰し、滑稽なくらいに時代に逆行した挙句、未完成のまま玉砕の憂き目を見た幻の巨城、八王子城。小田原城内で八王子城落城の報を受けた際、床を叩いて悔しがったと言われる悲運の名将・北条氏照は、八王子城から至近の場所で、今も静かに眠っています。

参考資料 : 「戦国の堅城U」(学研)、「探訪ブックス 関東の城」(小学館)、「季刊 考古学」他






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