「山中城のおはなし」

〜mixiコミュ 「お城めぐりしよう!」オフ会:城跡deランチ&デザート(第2回)の添え物として〜

初稿公開日:2008.5.24

1.山中城攻防戦
山中城といえば、小田原の役における山中城攻防戦について語らないわけには参りません。山中城の構造についてご説明する前に、まずは山中城攻防戦について、ざっくりとおさらいしておきたいと思います。
多くの方がご存知のことと思いますが、豊臣秀吉の小田原攻めの前哨戦として、天正18(1590)年3月29日、山中城への総攻撃が実施され、攻撃開始からわずか半日で落城します。誤解のないように念のため書き添えますが、山中城は決して中途半端なお城ではなく、むしろ国境警備の「最後の砦」として、後北条氏の5代100年に亘る軍事知識と築城技術の粋を集めて作られた、当時としては間違いなく最高水準の防御性を誇ったお城です。それがたった半日で落城してしまった要因は、城兵4,000人に対して攻城軍7万人という圧倒的な兵力差によるところが大きいのは勿論ですが、この城の構造的な弱点を的確に衝いた攻城戦法の妙が、日本の主要な攻城戦史上、稀に見る短期決着に至った要因であると考えています。落城の様子を克明に伝える史料が存在しますので、次の項で、その内容について触れてみます。

2.渡辺勘兵衛
山中城攻防戦については、「渡辺水庵覚書」という書物に、驚くほど詳細な記録が出てきます。渡辺水庵は、むしろ「渡辺勘兵衛」としてご記憶の方が多いことでしょう。何万石もの価値がある勇猛果敢な武将と称えられる一方、大変癖のある人物だったようで、藤堂高虎に仕えている頃に大阪の陣を迎え、そこで高虎と大喧嘩をして追放され、以後は藤堂家の横やりによって一族誰もがどこにも仕官できなくなるという不幸な晩年を迎える人物です。その勘兵衛が中村一氏に仕えていた頃に山中城攻防戦が繰り広げられ、勘兵衛は中村隊の先鋒として山中城に斬り込みます。「渡辺水庵覚書」にはその攻防戦も模様が克明に記されていますが、何しろ癖のある人物が自分の功績を強調した文章ですから、どこまで信じてよいかはわからないという見方もあります。そもそもよく読んでみると、岱崎出丸に一番乗りしたことを除けば、あまり優れた功績は挙げていないような気もします(それはそれでたいしたものだと思いますが)。しかし、その文章には、その場に居合わせた者にしか書けない臨場感があります。以下、勘兵衛の記録を現代語訳にてご覧下さい。

「・・・とりあえず出丸の前に前線基地を作り、辺りを見回していたら鉄砲のつるべ打ちにあった。中村本隊が背後に駆けつけたところで一足先に出て、出丸の下まで馬を走らせて、50人くらいで堀に飛び込んで、出丸の塀にとりついた。自分が一番先に塀を乗り越えたが、塀の向こうの兵はたいしたことはなかった。出丸の先には逆茂木(障害物)があって、三の丸の櫓門では大変な抵抗があって容易に近づけなかった。周りの人間がばたばた鉄砲で射倒された。それでも中には平気な顔をしている奴もいた。暫くじっとしていたら、搦手の方が崩れたようで、二の丸・三の丸の鉄砲の煙が少なくなったので、逆茂木を乗り越えて櫓門の扉をぶちこわし、三の丸に入った。三の丸と二の丸の間は水堀で、欄干付の橋がかかっていたが、相手を打ち倒しながらそこを駆け抜け、二の丸へと入った。さて本丸はどっちだろうと、辺りに生えていた大杉によじ登ってみたら、東向きの屋形が見えて、200人くらいの兵が槍をかかえて待機していた。あれが本丸だろうということでそちらに向かい、本丸の西側にある櫓の上と下とで槍の突き合いをしながら、大将らしき武将2人の首を捕ろうとしていたところに、搦手から来た大勢の軍勢が一気に櫓に攻めかかって、櫓を守っていた100人くらいの人間が、櫓の北と西にある角堀に押し出され、敵味方一緒になって堀に転がり込んでしまった。これでこの戦は終わってしまった。」

・・・現代語訳してしまうと実によあっけない、山中城の最期でした。

3.山中城攻防戦の検証
勘兵衛の文章に登場する山中城の構造物を順に追っていき、勘兵衛の攻城ルートを確認します。

<勘兵衛の攻城ルート>
出丸の堀→塀→出丸内→逆茂木→三の丸櫓門→水堀(欄干橋)→二の丸→本丸推定地→西櫓→角堀

鋭い方ならお気づきかと思います。昭和48(1973)年に開始された発掘調査によって、畝堀や障子堀といった、山中城を特徴づける数々の遺構が明らかになっていくのですが、この時集中的に調査された本丸〜西の丸ラインの西端に位置する一角に、ひとつの建築物の遺構が検出されました。山中城では、耕作による表土攪乱の影響で、勘兵衛の文章にある「東向きの屋形」を含め、建物の遺構はほとんど検出されませんでした。そのため余計にこの建築物の存在がクローズアップされ、これこそが勘兵衛の言う「西櫓」に違いないということになり、現在でも山中城の案内図には「西櫓」と記載されているものがあります。更に、この「西櫓」が発見される前の段階では、二の丸と西の丸の間にある「無名曲輪(つまり、名もない曲輪)」こそが「西櫓」だとする説もあって、現在、この地点を「旧西櫓」と呼称しています。「西櫓」は、なまじ史料があるが故に、研究者を悩ませ続けることともなりました。
先に「西櫓」がどこにあったかという結論をお話ししてしまいますと、これは現在の本丸北にひときわ高く存在する櫓台、すなわち近世城郭なら「天守」が存在すべき場所に存在した、山中城の中心的建物が「西櫓」の正体であることは、ほぼ間違いのないところです。もう一度勘兵衛の文章を読み返してみましょう。彼は二の丸に入った後、搦手から押し寄せる多数の攻城兵を目撃します。そして彼は、それらの攻城兵と一緒に本丸だと彼が信じる場所へと乱入し、山中城の最期を見届けます。この「搦手」とは、現在の縄張図と照らし合わせれば、西の丸方面しかないことは明らかですから、勘兵衛は西の丸を左手に見ながら、正しく本丸へと攻め入っています。従って西の丸の先にある現在の「西櫓」は、勘兵衛の視野にはほとんど入らなかったことでしょう。

4.山中城の構造と防御方針
山中城の全体構成は、本丸〜西の丸に続く尾根上のラインと、谷筋の東海道を挟んで反対側の尾根に広がる岱崎出丸のラインとに大別できます。二つのラインを繋ぐのが、現在は集落となっている三の丸です。現在の国道1号線はこの三の丸を縦貫していますが、かつての東海道も同様に三の丸を縦貫していました。いかに国境警備のお城とはいえ、主要幹線道路が城内の中央部を貫通している城郭というのはちょっと珍しいのではないでしょうか。平面図で見ると、三の丸を支点として、ほぼV字形に開くプランになっています。V字形プランのお城を攻める際には、V字の「付け根」が最も城内に食い込んでいますから、通常は弱点とみなされます。余談ですが、難攻不落を誇った静岡県の高天神城もV字形プランで、武田が徳川方の高天神城を落とした際も、徳川が武田方の高天神城を落とした際も、V字の付け根が陥落したことが決定打となって落城に至っています。ではなぜ、北条方は敢えてV字形のプランを選択したのでしょう?
この問題を解く鍵は、小田原の役の直前まで改修を加え続けたのが「岱崎(だいざき)出丸」であるという点にあるのではないかと考えています。岱崎出丸は総延長500mにも及ぶ長大な曲輪であり、東海道から見上げるとそれはもう城ではなく、「壁」です。しかもこの壁のような出丸の先端には「擂鉢曲輪」と呼ばれる塹壕のような一角があって、ここは間宮康俊率いる200人の決死部隊が、眼下の東海道に向かってひっきりなしに鉄砲(しかも普通よりでかいやつ)をぶっ放していました。出丸から延々と側射され続けた挙句に、三の丸の入口は逆茂木が積まれ、堂々たる櫓門で守っているわけですから、これは容易なことでは破れなかったでしょう。岱崎出丸が堅固であればあるほど、攻城軍は時間を浪費します。これこそが守城側の狙いであって、もたもたしている攻城軍に対し、やがて強烈な追っ手が現れる仕組みになっていました。この追っ手はどこからくるかというと、かの「西櫓」からどっと繰り出すわけです。もうおわかりかと思いますが、「西櫓」は単なる櫓ではなく、後北条氏による築城術の特徴の一つでもある「角馬出し」そのものです。敵前に敢えて弱点(山中城の場合は三の丸)を晒して敵を引きつけ、別働隊がその背後を衝くというプランは、例えば千葉県の本佐倉城等でもその実例を見ることができます。弱みを強みに転じることで、本来受け身の立場に立つ側が一点して攻める側に回り、心理的にも圧倒的優位に立てるという、成功すれば空恐ろしいプランです。山中城は、とんでもなくハイレベルな防御思想によって築かれた名城であると言えるでしょう。

5.山中城の落城
前の項で、山中城の高い防御性についてはご理解頂けたのではないかと思います。では本題に立ち戻り、なぜこの城が半日で落城したかという点について、もう一度考えてみます。圧倒的多数を誇る豊臣軍は、岱崎出丸には無茶とも思える力攻めを仕掛け、一方で徳川軍を駆使して山中城の真の生命線である西の丸と角馬出しを攻めさせます。岱崎出丸、特に先端の擂鉢曲輪への攻撃はすさまじかったことが想像されます。勘兵衛が岱崎出丸に登った時には相手の兵が「たいしたことがない」状態にあったとの記載が見られますが、出丸の兵の多くが猛攻を受けた擂鉢曲輪の加勢に行っていて、出丸全体の兵力が出丸の先端に偏ってしまったからでしょう。岱崎出丸の陥落後、間髪を入れず三の丸にも猛攻が仕掛けられますが、ここで攻城軍の大将格の一人である一柳直末が戦死します。戦国末期のこの時代、攻城戦で大名クラスが戦死するというのは、その攻撃が相当苛烈であったことを物語っています。つまり、この時点では、攻城軍は大苦戦しているわけです。いや、むしろ、彼我の戦力差を考慮すれば、守城軍の大善戦と言えるでしょう。しかし局面は、やがて西の丸が陥落することによって、攻城軍有利の展開へと大きく舵を切ります。
ところで、この西の丸の陥落は、山中城内にとんでもない事態を引き起こします。総大将・北条氏勝の城外脱出です。山中城は国境警備の臨時のお城であり、土地と結びついた領民や領主のいるお城とは訳が違います。北条氏勝は神奈川県の玉縄城主、副将の松田康長は今の大井松田(神奈川県)近辺に根拠を持つ後北条氏の筆頭家老の松田一族、間宮康俊は横浜市内の笹下近辺に根拠を構えた武将であり、後北条軍団のエリートクラスが選抜されてはいるものの、その実体は混成部隊です。特に北条氏勝には、軍事上の要衝である玉縄城を死守するという使命がありました。このため守城側は、せめて大将だけでも落ち延びて・・・と思ってしまったようなのです。この大将の脱出は致命的な士気の低下を招き、落城を早める結果となりました。統制された戦闘部隊をいち早く組織化し、城郭の縄張りから籠城法、戦闘法に至るまで均質化することにより大躍進を遂げてきた後北条氏でしたが、もしかしたらじわじわと大組織病のようなものが浸透していたのかもしれません。ともあれ、西の丸の陥落が攻城側の勝利を決定付けたという点で、この攻城戦における最大の手柄は徳川軍にあったのではないかと考えています。
ちなみに北条氏勝は地黄八幡の旗で知られる名将・北条綱成の孫です。小田原の役後も生き延び、徳川家康の甥を養子に迎え(弟がいたのですが)、この養子・北条氏重の代まで江戸時代の大名として存続します。氏重の実子は全て女子であったため、ここで改易となってしまいますが、氏勝の弟の家系は旗本として存続します。氏重の娘さんのうちの一人は、後にかの大岡越前守忠相の母になっています。血の繋がりこそありませんが、大岡越前守の曽祖父が北条氏勝というのも、なんだか不思議な気がします。

6.その他〜あとがきにかえて
山中城は、渡辺勘兵衛の記録によって鮮明にその最期の姿を辿ることができます。勘兵衛の記録に出てくる「大将と思しき人物」は、恐らく実質的な城将・松田康長その人でしょう。もう一人は定かではありませんが、朝倉元春(この方、越前朝倉氏の一族なのでしょうか。調べてみたのですがその出自について決定的な根拠は見出せませんでした)、あるいは多目長定といったあたりの人物だったのかもしれません。山中城で討死した彼らは皆、山中城の三の丸内にある宗閑寺で、攻城側の一柳直末とともに眠っています。
ところで、実は、勘兵衛の歩いたコースを正確に辿るのはなかなか困難です。そもそも一柳直末が足止めを食らって戦死した三の丸の櫓門のあった場所は、東海道、つまり現在も国道一号線が通っている場所に相当するわけで、山中城は決してその全貌が明らかになっているわけではありません。この資料を作成するに際しては、「静岡県の中世城館址」(1985年、静岡県教育委員会)と「戦国の堅城U」(2006年、学習研究社)を参考にしましたが、そのどちらの資料も、勘兵衛の攻城経路を正確には示していないように見受けられます。「戦国の堅城U」143ページの図に掲載されている勘兵衛のコースは、どこかが間違っているように見えるのですが、おわかりでしょうか?
それはさておき、山中城は三島市教育委員会が中心となって長期に亘る詳細な調査が実施され、ご覧の通り見事に整備され、後北条氏の築城技術を判りやすく伝えてくれています。書き忘れましたが、このお城ほど使用時期が特定の短い期間に限定され、純粋に後北条氏によって築かれたままの姿を残している城郭も珍しいと思います。半日で落城、という不名誉な記録を残した城郭ではありますが、やはり100名城に選定されるに相応しい名城であることは、疑う余地がございません。






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