「足柄城のおはなし」

〜mixiコミュ 「お城めぐりしよう!」オフ会:城跡deランチ&デザート(第1回)の添え物として〜

初稿公開日:2007.10.20

1.足柄城の立地
中世の東海道は必ずしも一本の道ではなく、特に箱根界隈では何本かのルートが同時に使用されていました。足柄街道はその中の主要な路線(もっとも足柄街道自体も何回かルートが変わっていますが)で、足柄城はその足柄街道の最高所に、街道を守るような形で築かれています。ただ、もう少し大きな目で見ると、足柄城の立地にはもうひとつの重要な側面があります。足柄街道は「東海道」であると同時に、「鎌倉往還道」でもありました。すなわち、甲府から小田原を経て鎌倉に向かうルートでもあったということです。この立地は、足柄城が修築補強された時代背景と大きく関わってきます。
少し大きめの地図を眺めると、富士山を中心に甲府、静岡、小田原を結ぶ線が、一辺80km程度の正三角形を形成していることに気付きます。これは何を意味するかというと、戦国時代に「甲相駿三国同盟」を締結していた武田、今川、後北条各氏の本拠地が、地図上ではほぼ等距離で、かつ、意外なほど至近距離であったということに他なりません。そういう位置関係の中で、甲府と小田原を一直線で結んだ線上の、小田原からわずか15km程度に位置するのが足柄城、ということになります。こうしてみると、足柄城が後北条氏にとって、いかに重要な立地であったかがご理解頂けるのではないかと思います。

2.足柄城の歴史
足柄城の築城時期は判明していません。南北朝時代に足利尊氏がここを戦場としたこともあるようですが、現在の足柄城の原型は大森氏によって築かれ、後に後北条氏によって修築されたとみてほぼ間違いないと思われます。大森氏はもともと駿河の豪族でしたが、応永23(1426)年に勃発した上杉禅秀の乱を機に箱根を越えて相模に進出し、箱根山の東西両面を支配するに至ります。箱根の東西両面を支配している時点では、足柄城は「境目の城」とはなり得ませんので、足柄城の築城はそれ以前で、それも築城当初は大森氏の本拠である駿河を守るため、相模に向けて防御が構えられた(現在は駿河に向けて構えられています)のではないかと考えられています。大森氏の足柄城は、現在の足柄城の縄張りにどの程度反映されているのでしょう。興味深いテーマだと思います。
大森氏は時代の風雲児・北条早雲の台頭によって、歴史の表舞台から姿を消します(一般には明応4(1495)年の出来事とされています)。その後、足柄城は後北条氏の属城となっていたようですが、足柄城が史料に初めて登場するのは永禄12(1569)年まで待たなければなりません。これは「甲相駿三国同盟」が破棄され、武田信玄が駿河に侵攻した時期であり、このあと武田氏は東駿河の諸城(蒲原、大宮、興国寺、長久保、深沢、葛山、足柄等)を攻め、あるいは降して小田原城を囲み、やがて甲府に戻ります。この頃、足柄城には近隣の浜居場城とともに、「城掟」によって厳しい軍律がしかれていたことが知られており、極度の緊張状態にあったことが推察されますが、前後の流れからすると、武田信玄の侵攻によって、足柄城は確実に第一回目の落城をしたものと考えられます。
その後、天正15(1587)年頃から、足柄城は再び大々的に修築されます。今度の敵は豊臣秀吉。かの有名な小田原の役です。秀吉は長久保城(静岡県)で徳川家康らと軍議を重ね、圧倒的な勢力を持って箱根の堅城・山中城(静岡県)をわずか半日で落とします。足柄城には北条氏忠がいましたが、「こりゃたまらん」と小田原城に引き返しました。その足柄城は、ほどなく徳川方の井伊直政によって攻められます。足柄城、二度目の落城です。これをもって足柄城は廃城となったと見てよいでしょう。

3.足柄城の縄張り
足柄城の主要部分はいわゆる「連郭式」ですが、「本曲輪、二の曲輪、三の曲輪」のみならず、「四の曲輪、五の曲輪」までしつこく揃えた「五連郭」の縄張りとなっています。現在に伝わる古図面でも、足柄城の曲輪が「五連郭」であったことを強く意識した図が描かれています。また、この五連郭を1本の道で接続した上で、五連郭全体が足下の足柄街道を睨みつけています。このように「道」を大きく意識した縄張りである点が、足柄城の最大の特徴です。道を意識しているという点では山中城も同様ですが、個人的には山中城より足柄城の方が、「道」への守りを徹底しているような気がします。
足柄城の中を進む道は、五の曲輪から本曲輪を見た場合、五の曲輪から三の曲輪入口(虎口)までは右側(西側)を巡っていますが、三の曲輪出口(裏虎口)から本曲輪までは左側(東側)を巡っています。この点を受けて、たとえば本曲輪〜三の曲輪と、四の曲輪〜五の曲輪では、築造時期が全く異なるのではないか、という見解が出されています。また、もっと極端な見方として、この城の「司令塔」は本曲輪ではなく、三の曲輪におかれたのではないか、という見方もあるようです。実際、現況を見ても、三の曲輪は他の曲輪にない特徴(出入り口が1ヶ所しかない、城内全体を見渡せる、等)がありますので、本丸とは言わないまでも、一定の司令塔としての役割を果たした曲輪ではなかったかと思うのですが、いかがでしょうか。
「道」を意識した縄張りの延長線上のお話としては、足柄城の最前線における強固な防御性というのも見逃すことができないテーマです。五の曲輪のさらに下部、「寺庭」と呼ばれる地域では、街道をねじまげるほどの大土塁と大空堀の存在が確認されています。また、古図面によると、本曲輪の背後にある「猪鼻口」には三重の枡形虎口が存在したようで、今も林道の脇にその痕跡を残しています。また、県道からお城を挟んだ反対側(東側)の谷にも、「クラヤシキ」と呼ばれる段々の他、土塁・空堀などの遺構が残されています。
また、足柄城を取り巻く尾根には、通り尾砦、こなら尾砦、阿弥陀尾砦、猪鼻砦、浜居場城など、数々の支城群が残存しています。足柄城は、国境と街道を守る一大城塞ネットワークの中心でした。

<本曲輪>
城内の最高所に位置しますが、昭和50年代に公園化された際、ブルドーザの整地によって、蔀土塁などが失われました(痕跡はあります)。現在もわずかに水を残す玉手池は、かつては石垣で護岸され、溢れんばかりの水量を誇っていたようですが、昭和30年代に県道の工事で付近を掘削した際、水量が減ってしまったとのことです。

<二の曲輪>
現在の本曲輪〜二の曲輪を結ぶ遊歩道は城道でも土橋でもなく、本曲輪〜二の曲輪間を結ぶ空堀の「畝」で、かつては天辺が円い「カマボコ型」だったようです。ここも公園化する際にブルドーザにより平らにされています。

<三の曲輪>
ほぼ正方形の曲輪は、かつては土塁で囲まれていたようです。城道は、三の曲輪には入らず、東側からその縁を通って西側へと抜けました。城道がその曲輪内を通過していないのは本曲輪と三の曲輪だけですので、その意味でもこの曲輪の特殊性が窺えます。

<四の曲輪>
城内でもっともでっかい曲輪です。池もあったようですので、兵隊さんはここに駐屯していたのでしょう。西側の通路は非常に複雑な経路を辿っていて、脇道もいっぱい持っていたようですから、兵隊さんの集散はこの曲輪が起点になっていたものと推察されています。また、足下の街道に向け、巨大な櫓台が張り出しています。

<五の曲輪>
四の曲輪の前面を守るように、細長く作られています。四の曲輪の東寄りを貫通する城道はそのまま五の曲輪を通過して土手状の道となり、食い違いの土塁を抜けて街道へと降りています・・・が、正確にいうと街道まで降りていません。古図面ではこの土手が「大手口」として描かれていますが、足柄城の大手道がこの土手を通っていたのか、土手下側の堀底道を通っていたのかは、この土手があまりにも突出しているので「道」としての機能を疑問視する声もあって、実はよくわかっていません。この土手から四の曲輪の櫓台までが、このお城の見所の一つとなっています。
(後日談:2009年にこの場所を再訪したところ、道路拡幅(駐車場建設?)のため、遺構の一部が破壊されました。足柄城の大きな特徴をなす部分であっただけに、大事にしてほしかったな、と思います)

4.その他〜あとがきにかえて
足柄城の解説文を読んでいると、「足柄城には石垣があり、所々にその残欠を見ることができる」との記載を目にすることがあります。また、足柄城の修築には一度ならず「石切衆」が動員されたことが史料からも明らかです。しかし、現在の足柄城には、少なくとも表面上はほとんど石垣が見られません。では、石垣はどこに使われて、どこにいってしまったのでしょうか?
「足柄城の本曲輪〜三の曲輪に残存していた石垣は関東大震災で崩壊し、その石材は谷底に葬られた」
というのが、どうやら正しい結論のようです。県道の拡幅時に邪魔になった石垣の残石は、谷底へと放り投げられたと伝えられていて、事実、足柄城の山中には石垣の用材がごろごろ転がっているそうです。
それこそ発掘調査でも実施されれば、地下から石垣が顔を出しそうな気がするのではありますが、驚くことに、筆者が知る限り、これだけのお城であるにも関わらず発掘調査が一度も実施されていません。本稿は静岡県小山町教育委員会が編纂した「足柄城現況遺構調査報告書」をベースに執筆していますが、300頁を超えるこの調査報告書においても、発掘調査がなされたとの記載はありません(逆に言えば、発掘もなく、300頁を超える調査報告書を世に送り出した関係各位の熱意には頭が下がる思いです)。
山頂に位置し、400年余もの間、決して穏やかならぬ気象条件に晒された足柄城は、現在もなお風化が進んでいるものと思われますが、裏を返せば現在の表土の下には、恐らく相当良好な遺構が残存しているのではないかと思われます。特に石垣が発見される可能性については期待大ではないでしょうか。大掛かりな発掘調査を経て復元され、見事100名城に名を連ねた山城の代表格として、山中城と金山城(群馬県)とが挙げられますが、山中城とほぼ同じ成立事情と規模を持ち、金山城に匹敵する石垣を持つお城がここに眠っているとしたら・・・いかがでしょう。ちょっと楽しくなってきませんか?

参考資料:「足柄城現況遺構調査報告書」(1989年 小山町教育委員会)





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