屋代氏館
やしろしやかた



所在地:山梨県北杜市明野町上神取
最終更新日:2020.5.26

   
<2012.2.18記>
屋代氏館近辺の圃場整備に伴う発掘調査が行われ、2012年の2月に現地説明会が開催されたようです。現地説明会に参加したのかどうかは定かではありませんが、とあるお城仲間がこの時期に屋代氏館を訪ねたそうで、私に対してさんざん「よかったよ〜よかったよ〜」と吹聴してくれましたので(笑)、悔しいからこのページを作りました。
屋代氏は後々大名家として江戸時代まで存続する、この地域の名士です。そのせいか、館の跡からは石組の庭園なども出土したようです。城館庭園にはかなり興味を抱いているところなので、当然この館にも興味を持ったわけですが・・・残念ながら、庭園跡を含め、遺構は全て埋め戻されるらしいです。
屋代氏はもともと、信濃国に一大勢力を誇った村上氏の一族で、武田信玄によって村上氏が越後に追われる頃には、村上氏とともに越後に追われた屋代氏と、武田氏に仕えた屋代氏がいたようです。武田氏についた屋代氏は秀正(勝永)の頃、武田氏が滅亡し、上杉氏、徳川氏と主家を転々とする、結構大変な時期があったようですが、家康に仕えてからは漸く落ち着き、慶長年間にここに館を築いて6000石余りを有していたとのことです。してみると、この館は戦国城館ではありますが、比較的世の中が落ち着き始めてからの館ということになります。
勝永の子・屋代忠正は徳川忠長の被官となり1万石を領しますが、主君の忠長が改易されてしまい、それに連座していったん浪人となります。その後許されて安房国北条藩1万石の大名となり、屋代氏はなんとか明治まで大名として存続します。忠正の時代、忠正がこの館に住んでいたかどうかは定かではありません(忠長は駿河府中の大名ですからそっちにいたのかも)が、屋代氏がいったん所領を召し上げられるまでの間、この地には何らかの形で館があったことでしょう。

<2018.1.19記>
上の文章を書いてから実に5年以上が経過したところで、漸く屋代氏館を訪れる機会が巡ってきました。もちろん発掘の成果は全て埋め戻されており、もともと地表面に顔を出していた土塁の他に屋代氏館を偲ぶよすがはありませんでした。民家と畑に戻った今、長い時間きょろきょろと歩き回るのは迷惑なことでしょう。
「あの畑の下に、庭園が埋もれているのかー」
と思いながらも、早々に退散することにしました。
ランク 市史跡
土塁
創築:慶長年間、屋代勝永
屋代氏
アクセス 目印になりそうなものが何もありません。私は「北杜市明野町上神取」の住所を登録して、示された地図の「上の方」を漠然と示し、そこに向かって車を走らせました。見当が間違ってさえいなければ、道路の右側に土塁と立て看板が出てきます。
駐車場はもとよりありませんので、看板の近辺に停車して、見学は早めに済ませましょう。


屋代氏館フォトギャラリー





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