新府城
しんぷじょう



所在地:山梨県韮崎市中田町中条
最終更新日:2021.6.14

   
<2001.11.16記>
どうにもこうにもイメージの悪いお城です。名門武田家没落のきっかけをつくったお城ですから。実際に行ってみると、突貫工事とはいえ土塁は低いし、そのくせ大手門だけは立派な構えを見せていて、見てくれを取り繕おうとしているかのようにに見えて尚更イメージを悪くしてしまいます。
丁度発掘作業の最中だったようで、本丸のそこここにトレンチが掘られていました。炭化した切り株や瓦、石材などが露出していて、意外と見ごたえがありました。それがなかったら、歴史といい現状といいあまりにも殺風景で、悪い印象ばかりが残るところでした。
さて、武田勝頼が新府の地を「新府」として新たな拠点と定めた背景には、甲斐から信濃・駿河・美濃・上野にまで拡大した武田氏の領国支配を考えた場合、甲府では若干偏りがあるのと、古府中の躑躅ヶ崎館の周囲が、城下町を形成するには手狭になってきたことがあげられるようです。単に信玄色を一掃するためだけに移転しようとしたわけでもないようですね。
ただ、結果として、この築城は家臣団の反発と財政の窮乏を呼び、城郭として完成する前に、このお城を守るだけの兵数すら確保できなくなった武田勝頼自身によって焼き払われ、その短すぎる歴史を閉じます。武田氏滅亡後も暫くは使われたようですが、それでもほんの数年しか存続していなかったことになります。

<2010.2.14記>
久々に上のコメントを見直してみて、ずいぶん辛口だなあと苦笑してしまいました。武田勝頼という人物と、時代の大きな流れに押し流されてしまう武田氏の命運については、上のコメントを書いた後、相当見直しました。今改めて新府城を訪ねたら、さすがに違った印象を持つのではないでしょうか。発掘成果に基づく虎口の整備も進んでいるようです。ただ、土塁が省略された丸馬出しや、漫然と広い本丸等、やはりどこかで不完全というか未完成というか、この城をどういった目的で築こうとしたのかがよくわからなくなる要素が沢山あるような気がします。しかし、そうした不完全さも、裏を返せば新府城ならではの特徴を示していることになるのだと思います。

<2019.2.3記>
初めて新府城を見てから20年近くの年月が流れました。武田勝頼に対する評価は近年ますます見直しが進んでいますが、新府城の未完成感を補うだけの議論はなされていません。仕方ないです。現実に未完成だったんですから(笑)。最近になって、ずっと見学し損ねていた搦手側の両袖枡形虎口(注:これを「両袖枡形虎口」という名称で呼んでよいのかは異論もあるようです)を見てきたのですが、ここだけはかなりしっかりと作られていたみたいですね。躑躅ヶ崎館の大手だったであろう西館の虎口と同じ形式で作られており、名目上は搦手ですが、もしかしたらかなり大手に近い扱いを考えていた門なのかもしれません。仮想敵を織田とした際にはこちら側が防御正面となりますから、大手門は丸馬出側でよいのだと思いますが、何よりこっちが諏訪に向いていますし、平時を想定した場合はこちらが大手なのかも・・とか考えてしまいました。
戻ってきてびっくりしたのが、今までフォトギャラリーを作っていなかったこと。そうと気づいていればもっと写真を撮ってきたのに・・また行かなければ(笑)。

<2020.6.4記>
昨年、静岡古城研究会の機関紙「古城」で新府城についてもちょこっと取り上げました。武田氏の手によるお城に特徴的な枡形門(一の門と二の門が直角に折れず、平行になっている枡形門)は武田氏の城郭の中でも特に重要な虎口に設けられていることが多いのですが、新府城ではそんな枡形門が大手口(東側)と搦手口(西側)とに設けられています。もし本当にこの虎口に一定の「正面性」を認めることができるのであれば、甲府に向いている東側はともかく、信州に向いている西側にもこの虎口を採用したのは象徴的でしょう。甲州・信州の両国を領国化した武田氏にとって、甲州と信州の両面に「正面」を向ける意味は非常に大きくて、その点は甲府からわざわざ信州寄りの新府に本拠を移したこととも符合します。武田勝頼によって新府への移転は単に防御性の高い場所への移転ということではなく、甲州・信州をひとつの領域と考えた場合の最適解だったような気がします。もしかしたらそれは清州→小牧→岐阜→安土と拠点を京に寄せ続けた織田信長への対抗意識があったのかもしれません。
ただ、新府への移転は信玄以来の古参家臣団の反感を買い、武田氏領国が加速度的に瓦解していく大きなきっかけとなってしまったのも事実です。もし新府城の虎口が私が想像するような「東西正面型」の虎口であった場合、甲州ではなく信州を向いていることに対する甲州人の反発が、もともと信州と縁が深い「諏訪」勝頼への潜在的な反発心と結びついてしまった可能性は考えられないでしょうか。そうだとすれば戦国大名における本拠地の移転というのは、もともと支配地への強い結びつきがある「武士」という階級にとって革命的な出来事だったことでしょう。織田信長は本拠地移転を強引に進めることで武士と土地との繋がりを希薄化し、結果的に武士から農耕を切り離して戦闘専門集団(軍隊)を作ることに成功し、武田勝頼はそれに追随しようとして旧弊に屈し、滅び去ったという見方もできそうな気がします。そうやって考えてみると、新府城という壮大な未完成の城郭は、武家の世が確実に新しい時代へと転化していく過程で取り残された、実験台のような存在だったのかもしれません。
ランク 国史跡、続100名城、百選、山梨県2位
土塁、堀
創築:天正9(1581)年、武田勝頼
武田氏、徳川氏
アクセス 新府駅から西に1km弱。十分に徒歩圏です。車なら七里岩ラインに沿って走れば新府城の東脇をかすめることになります。駐車場は東出構近くにどーんと構えられていますのでそこに停め、歩いて新府城を散策しましょう。神社の石段を上るといきなり本丸に着いてしまいますので、東から南へと回り込むコース(大手馬出が見られます)か、堀沿いに出構を横目に見つつ、搦手から入るコースのいずれかを選ぶことをお勧めします。
続100名城スタンプは、ちょっと離れた韮崎市民俗資料館に置かれています。新府城は理論上24時間見学可能ですが、資料館は開館時間を十分に確認してから行きましょう。


新府城フォトギャラリー





inserted by FC2 system