若山城
わかやまじょう

(山口県周南市)
最終更新日:2016.8.14

地図

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<2016.8.14記>
日程が限られる遠征で山城を訪ねる際には、なるべく車で登れるお城を選ぶようにしています(笑)。若山城はそういう意味では理想的なお城で(笑)、国道2号線からの標識も完備していて、まず迷うことはないでしょう。地元の方の若山城への愛情も並々ならぬものがあり、陶晴賢を敬愛することにかけても一方ならぬものを感じます。
若山城の見どころは畝状竪堀である・・・との認識だったので、主郭の北側斜面をじーっと眺めて、主郭まで行ったところでなんとなく満足してしまい、そのまま下山してしまいました。後でよくよく調べてみたら、主郭の先の「西の丸」の虎口に石垣があったんですね。見ないで戻ってきてしまいました。あーあ。またやってしまった。
Data
ランク 「山口県5位」
石垣、堀
創築:文明元(1469)年頃、陶弘護
陶氏
若山城のある一帯は都濃郡富田保と呼ばれ、武家勃興の時代から一貫して陶氏の管理下に置かれた土地です。陶氏は百済の聖明王を祖とする渡来系の一族との言い伝えがある名族で、同族とされる大内氏の有力被官として終始その行動を共にしてきました。
文明元(1469)年、応仁・文明の乱が地方に派生する形で周防国でも大内政弘と大内教幸(道頓)との守護権争いが勃発します。西軍方として在京していた守護・政弘を出し抜く形で東軍方の8代将軍・足利義政から守護職を任命された教幸が周防でクーデターを起こします。この時の陶氏当主はまだ若年の弘護で、いったんは教幸に服属するのですが、時機を見て叛旗を翻します。若山城が築かれたのはこの頃のことで、教幸の逆襲に備えた築城だったのではないかと推測されています。
天文19(1550)年から翌年にかけ、陶晴賢が大内義隆と対立し、義隆を討つという事件が勃発します。個人的には、陶晴賢は決して謀反しようとしたのではなく、乱世をまとめていくには義隆のような放漫型の旧来の守護職ではなく、権力を集中して掌握できるような専制型の君主が必要であると考えた、時代の流れに沿った行動だったのだと思います。それを「謀反」と喧伝し、仇討ちの名目で陶晴賢を討ち、それをテコにせっせと集権化を進めていったのが他ならぬ毛利元就ですから、元就という傑物がいなければ、陶晴賢はきっと世直し大明神。大内氏中興の祖としていつまでもその名声を留めたことでしょう。
歴史上の事実としては、陶晴賢は厳島で毛利元就に大敗し、恐らく本人も想像しなかった形であっけなく自害します。残された若山城には晴賢の長子・長房がいましたが、晴賢に遺恨を持つ大内氏家臣・杉重輔に攻められ落城。最終的には毛利元就によって陶氏勢力は一掃され、若山城はその役割を閉じることとなりました。
以上の歴史から推測するに、若山城の最終形は毛利元就が大内義長を討って防長二国を制圧した弘治3(1557)年以前のものと考えてよさそうです。現在、若山城には主郭北側の緩斜面を消すための畝状竪堀が存在しますが、こういった防御方法も、16世紀半ばには利用されていたということが言えそうですね。なお、私が見逃した石垣は西の丸に存在しますが、聞くところでは石垣はここだけなので、何らかの意味がある曲輪として西の丸が意識されていたか、たまたま石が沢山あったかのどちらかでしょう。
現在の若山城は、地元の方に本当に大事にされています。登城路も「陶の道」と通称され、数百年に及ぶ陶氏の治世を今も讃えています





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