櫛崎城
くしざきじょう

(山口県下関市)
最終更新日:2016.8.13

地図

櫛崎城フォトギャラリーはこちら

<2016.8.13記>
櫛崎城を目指すには、豊浦高校を目指すのが一番手っ取り早いと思います。櫛崎城の中心部は関見台公園という公園になっていますが、カーナビだとなかなか公園の名前がヒットしないので。豊浦高校の敷地がかつての陣屋の敷地だったようで、現在の櫛崎城と合わせて考えると、相当広大な面積を有していたお城だったことがわかります。名目上は櫛崎城を破城とし、隣に陣屋を作ったことにはなっていますが。
櫛崎城の西面には、高さ4〜5mの石垣が延々と現存しています。見たところ古ーい積み方のようで、破壊されたような跡は見当たりません。櫛崎城は一国一城令で建物こそ破壊されましたが、天守台には礎石がそのまんま残っていることなども併せて考えれば、すぐにでも使える形で残されたのではないかと思いました。
よく話題になるのが石垣の角にたつ「民家」。この民家、どうみても多聞櫓に見えますよね(笑)。家主さん、絶対狙ってると思います。
本丸で目につくのが、天守台と「くじら館」。天守台の石垣は最近積み直されたもので、目新しい感は否めませんが、50年もすれば落ち着いてくるのではないかと思います(笑)。
天守台から見ると「くじらの向こうに海が見える」という、他のどこにもない不思議な絶景が広がっています。くじら館は閉館となり、現在は立ち入り禁止ですが、何しろ外観がくじらの形ですから、建物としてはそれほど長持ちしないでしょう。かつてはくじらの口のところが展望台になっていたようで、瀬戸内の景勝を眺める絶好のポイントだったと思うのですが。。。
Data
ランク 「山口県3位」
石垣
創築:天慶3(940)年、稲村景家  改築:慶長5(1600)年、毛利秀元
毛利氏(長府藩、50000石)
毛利支藩・長府藩の藩庁です。長府藩は毛利元就の四男の子・毛利秀元を藩祖とします。毛利元就の子と言えば「三本の矢」に表象される毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の三人があまりにも有名ですが、元就には他にも男子がいたんですね。元就の四男・穂井田元清は妾腹だったため父の元就からは上の三人とは異なる扱いを受けますが、元清は極めて優秀だったようで、自らの力で毛利家の中でも認められた存在を勝ち取ります。元清の長男が毛利秀元で、秀元は毛利氏当主・輝元の養子となりますが、輝元に嫡男が誕生したのを機に改めて分家し、半独立の大名となりました。関ヶ原の後も半独立の地位は守られ、今の下関市に長府藩を立藩し、櫛崎城を近世城郭に改築して居城としました。元和一国一城令が出た際、長府藩ではこれに従って城郭を破却するという決断を下します。このあたりに、半独立大名としての立場の難しさを感じます。とはいえ、同様の運命を辿った岩国城に比べると破却の程度は軽かったのではないか・・・と思うのは、上の文章で書いた通りです。
幕末になると櫛崎城が海に近すぎるという問題を抱えます。長府藩は内陸に勝山御殿を作って藩庁を移転しますが、櫛崎城にはその後も大砲が設置され、見張り台兼砲台としての役割を果たしていました。その大砲は下関戦争が終結した際、フランス軍に接収されてしまったようですが(涙)。
現在の櫛崎城は上に述べた通り天守台近辺の石垣が復元されている他、主郭縁辺の鉢巻石垣が現存しています。更に陣屋や城下町と接する西面には長大な石垣がそのまま残されていて、石垣好きにはなかなか見どころのあるお城となっています。





inserted by FC2 system