舘山城
たてやまじょう



所在地:山形県米沢市
最終更新日:2017.5.15 

   
<2012.6.9記>
米沢は通過したことこそあれ、滞在したことがありません。従って、近世上杉氏の本拠地である米沢城にも、伊達政宗の本拠地であったとの噂もある舘山城も、足を踏み入れたことがない場所です。私にとってはまだ見ぬ憧れの地・舘山城ですが、平成24年、いよいよ本格調査が始められることとなりました。城下町の遺構が発見されたことで、伊達氏が米沢にいたころの「本城」であった可能性が高まり、伊達政宗がいた場所が舘山城であったことの蓋然性が俄然、高くなりました。調査の結果、どんなものが出てくるかが楽しみです。
このお城、新田氏(奥州藤原系で、新田義貞の新田氏とは別系統)のお城だったようで、元亀元(1570)年、時の新田氏当主であった新田義直が伊達輝宗(伊達政宗の父)に制圧されたことは事実として記録されており、元亀元年現在において、舘山城には新田氏がまだ存在していたことがわかります。その後、一般には伊達輝宗が政宗に家督を譲った際に隠居地として舘山を選んだこと、天正15(1587)年には伊達政宗が本格的な築城を始めようとしていたことなどがわかっていますが、伊達政宗が米沢に居住していた頃の住まいが米沢城であったのか舘山城であったのかが定かではなく、これを調査しようとしているのが平成24年の本格調査・・・なのだと思います。
伊達氏はその後、葦名氏を滅ぼしたことで本拠地を黒川(今の会津若松)に移すことになり、舘山城は放棄されたもののようです。
現在残る舘山城は、丘陵地の先端を堀と土塁ですぱすぱ切断する、どちらかというと古風な造りになっています。が、石垣の使用が見られること、土塁などの規模が大きいことから、平面図上の古風な造りとは裏腹に、かなり近世に近いところまで使われたのではないか、という雰囲気が漂っているようです。さて、調査の結果、どのようなことがわかりますやら・・・

<2017.5.15記>
上の文章を書いた頃は、まだ舘山城を伊達のお城と信じて書いていますね。発掘調査が終わり、埋め戻されずに残った石垣を見学してきました。橋の手前で車を降りて、恐る恐る城内へと入ってみると、「私有地につき、立ち入り大歓迎」の杭が(笑)。おまけに簡易トイレと冷たい飲み物まで用意されています。これは一本も二本も取られました。有難く見学させて頂きます。
石垣は一見して天正時代のそれではなく、石垣による築城技術が成熟した慶長以降のものであることが直感できます。もとより石垣の編年技術が確立されているわけではないので断言はできないのですが、この石垣を天正時代の伊達氏に遡らせるのは不可能ですね。舘山城の最終形は慶長年間、上杉氏が米沢に入ってからのことでしょう。上杉氏が舘山城を修築したという記録がないというのも、徳川の目を気にして記録を残さなかったとすれば合点がいきます。山麓の居館部分からは盛んに天正時代の遺物が出土したそうですが、山上からはほとんど遺物が出なかったそうです。それも「修築して準備はしたものの一戦交えるには至らなかったし、そもそもお城を利用したことなどない」という形を残すためには遺物なんか残せませんよね。気持ちの上では徳川と臨戦態勢にあった上杉なら、そのくらいのことはやるでしょう。
さてさて舘山城は、平成26(2014)年にはめでたく国の史跡にも指定されました。地元の方の熱い気持ちに応えるためにも、一人でも多くの方が舘山城に触れることを祈念します。でも荒らさないようにしましょうね。
ランク 国史跡、山形県4位
石垣、土塁、堀
創築:不明、新田氏
新田氏、伊達氏、上杉氏
アクセス 舘山城の周辺にはカーナビで目安にするものがありません。県道233号線を西に向かい、米沢市立第三中学校を過ぎて国道121号線と合流したら、橋を渡ってすぐ左折すると、案内看板があります。ちょっと細いですがもう一本橋を渡って進むと、やがて「私有地につき立ち入り自由」の駐車スペースが現れます。


舘山城フォトギャラリー





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