長瀞城
ながとろじょう

(山形県東根市)
最終更新日:2015.9.27

地図

<2015.9.27記>
新庄城から東根城を目指して走っているうちに、カーナビの地図に不思議な区画が映りました。三重もの真四角な区画を四つに分断する道路。見る人が見れば、そこに正方形のお城があったとしか考えられない区画なのですが、あまりにも区画が綺麗すぎるので、「まさか」との思いも同時によぎりました。ここで寒河江城の記憶がなければ「単なる新興住宅地の区画だろう」と片づけたところだったのですが、ここ山形にはその寒河江城のように、正方形の三重堀に囲まれたお城が実在しました。なればここももしかしたら・・・と思い、引き返してカーナビの地図を頼りに区画のど真ん中に乗り込んでみることにしました。
区画のど真ん中で目にしたそれは、「長瀞城」の碑。碑の周りには水堀も残り、もはやここがお城であったことは疑いのない事実となりました。事前の下調べでは全く気付きもしなかったお城が、たまたま偶然こんな形で見つかることもあります。城旅の醍醐味でもありますね。
Data
ランク -
創築:建長年間?西根氏、改築:16世紀頃、最上氏
西根氏、最上氏、米津氏(長瀞藩、11000石)
長瀞城の存在も知らなかったのですが、調べてみると少なくとも幕末時点には長瀞藩の藩庁として機能していたことを知り、驚きました。山形城からもほど近い場所ですが、こんなところにも大名がいたんですね。長瀞藩主となっていた米津氏は譜代大名で、出羽の他関東各地に所領を有し、合わせると1万石を超えるということで、ぎりぎり大名の扱いになるのだそうです。そんな小藩の長瀞城ですが、前身は鎌倉時代の武家館まで遡るようで、かの最上氏も活用していたとのことですからお城としての歴史は大変長いものとなります。
正方形の(このあたり、いかにも武家館出身のお城ですが)本丸を中心に、これまた正方形の堀が三重に巡り、その多くが現在も残存しています。驚くのは本丸の中心を軸にして城内を四分割する道路が作られ、その道路を中心に住宅地が形成されていること。これが新興住宅地と勘違いした要因でもあるのですが、どうしてこんな形で道路を作ったものなのやら。
米津氏は幕末に奥羽列藩同盟に属しますが、官軍と結んだ山形藩の攻撃を受けて焼け落ちます。藩主の米津正敏は父・正明の本家である庄内藩へと逃亡する羽目になりました。哀れ小藩の悲しさというところでしょうか。





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