長岡代官陣屋
ながおかだいかんじんや

(山形県寒河江市)
最終更新日:2015.9.28

地図

<2015.9.28記>
事前の下調べで、陸上競技場の周辺に土塁が散見されるのみ・・・という話を知ってはいたものの、ここもまたお城らしさを実感するのが困難な場所でした。でもまあ、見る角度を工夫すれば、土塁上の松がかっこよく見えなくもないか、と、撮影したのが上の写真。どうでしょう。城っぽく見えませんでしょうか。
Data
ランク -
土塁
創築:慶応3(1867)年、徳川幕府
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幕末の動乱時に徳川幕府によって事実上新規に築城されたお城です。そう考えれば、このお城の歴史的な価値は案外低くないのかもしれません。幕末に築かれた幕府の城なのですから。名目上は百姓一揆対策としての「治安維持」のために柴崎・寒河江両代官陣屋を統合することが目的とされましたが、幕府支配体制の強化の一環で、強力な防衛拠点を築く必要に迫られての「築城」だったのでしょう。
この長岡代官陣屋を拠点とした戦いが戊辰戦争の一連の戦いの中で記録されています。世に「長岡山の戦い」と呼ばれる戦いがそれで、庄内藩と桑名藩を中心とする幕府軍約300名が長岡山に立てこもり、米沢藩と薩摩藩を中心とする政府軍と戦ったもので、幕府軍側が退却を余儀なくされています。曲がりなりにもこの陣屋は戦いの場としても機能したということになります。
現地には「長岡民政局」の碑が立つだけですが、幕末好きの方はこの小山の上で理不尽な戦力差の中で背一杯戦った庄内・桑名連合軍に思いを馳せて頂ければと思います。ちなみになんで桑名藩が東北に?と思われるかもしれませんが、戊辰戦争当時、桑名藩主松平定敬と会津藩主松平容保は兄弟という関係でした定敬は容保を頼って会津に向かったのですが会津戦争への合流を容保が許さなかったため、定敬は更に北に向かっていたのだそうで、その定敬を追って桑名藩士も北に向かっており、その最中の戦いだったのだそうです。





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