米子城
よなごじょう



所在地:鳥取県米子市久米町
最終更新日:2022.11.18

   
<2013.10.19記>
宍道湖の夕暮れは美しいものだと盛んに耳にしていたのですが、お隣・鳥取県の中海(なかうみ)の夕日もなかなかのものです。前の行程がちょっと長引いて、このままでは夕暮れまでに宍道湖には着かないなあという見通しのもと、米子城から見る中海の夕日もきっと綺麗だろう・・・と思い立ち、宍道湖をあきらめて中海の夕日を眺めるべく、米子城を目指しました。
米子城を訪ねるのはこの時が2回目で、20年くらい前に訪ねた時には天守台の周囲は瓦だらけだった記憶がありましたが、この時に見つけた瓦はほんの数えるほど。あの膨大な瓦はどこにいってしまったのでしょう。お城全体も整備が進み、綺麗な山城になっていました。
さて、中海からの夕日は想像以上に素晴らしく、湖を切り裂く光の筋のその先にぎらぎらとした太陽がゆっくりと沈んでいく様は荘厳そのものでした。光の筋の中にタイミングよくヨットの帆が入り、よい写真も撮れました。うん。大満足。
天守台の上には地元の不良っぽい少年が二人、石垣上に足をぶらぶらさせながら何やら語っています。見た目が怖そうだったので、彼らに気づかれないようにそーっと下山しようと踵を返したその時に、二人の会話が聞こえてきました。
「俺はさ、ぜってー世界チャンピオンになってやるぜ。」
「○○ちゃんならなれるよ。だって、○○ちゃん強えーもん。すっげー強えーもん。」
大きな大きな夢を真剣なまなざしで語る二人を遠めに見ながら、彼らを最初に「不良」だと思った自分を恥じたのでした。

米子城は伯耆山名氏のお城として築かれたとされ、文明2(1470)年には尼子氏との戦いに敗れた山名氏が米子城に退避したとの記録があるようなので、それ以前から米子城は存在したのでしょう。湖に面した独立丘陵という、お城を築くにはもってこいの地形ですから、相当昔からお城があったのでしょうね。
伯耆山名氏は尼子氏再興を期した山中鹿之助らと組んで毛利氏と対峙しますが、毛利の先兵・吉川氏との戦いに敗れ、その後は吉川氏の持ち城となります。近世城郭としての改築は吉川広家が城主だった天正19(1591)年から始まり、この頃に天守も建てられたようです。関ヶ原の戦いの後に吉川氏は岩国へと転封し、米子には駿府から中村一氏・・・は関ヶ原直前に死去したのでその息子の中村一忠が、17万5千石の大封をもって入城しました。この時に米子城は更なる大改造がなされ、拡張された本丸には吉川氏の天守より一回り大きな天守が建てられました。面白いのはこの時、吉川氏の天守を壊さずにそのまま残したことで、米子城は世にも珍しい「天守を二つ持つお城」として存続することになります。中村氏はその後お家騒動やら何やらごたごたあって改易となり、加藤氏を挟んで鳥取池田氏の領地の一部となりました。この時点で一国一城令に則って廃城となってもおかしくないのですが、そこは大藩・鳥取藩のこと。因幡の鳥取城が本城ながらここは伯耆ということで一藩二国二城が認められ、米子城は家臣・荒尾氏の住む城として存続します。
米子城の二つの天守も、そのまま明治まで存続することになりますが、強運もここまで。明治維新後のお城の払い下げで、二つの天守は天守台の周りに膨大な瓦を残しながら、城下の風呂屋で薪となり、煙となって消えたのでした。
現在の米子城には石垣の他に残されたものはありませんが、その石垣は大藩のものに相応しく、立派です。なお、車で行く際にはお城の真下の駐車場(19時まで)を素通りし、湖沿いの公園の駐車場に入れることをお勧めします。真夏に日没まで見届けると、駐車場が閉まってしまいますので。

<2019.7.27記>
その後、米子城から登り石垣と竪堀が検出されたとのニュースが駆け巡り、更には続100名城に指定されたとの知らせも飛び込んできました。それではもう一回行ってみるか、と2018年に足を運びましたが、折しも台風被害やらなにやらあって、本丸への道筋は大きく迂回するコースとなっていました。おかげで普段は通らないであろう、比較的整備も進んでいない面の石垣等も否応なく見ることになりました(笑)。松江城も北と南でかなり様相が異なるのですが、米子城はその上を行きますね。古城というより、廃城の風情が漂います。米子城の石垣は海ではなく陸、すなわち城下町を向く側に集中的に築かれたのでしょう。
さて、登り石垣と竪堀ですが、竪堀はまずもって問題なく、竪堀でした(笑)。登り石垣は、斜面を垂直に駆け上がる石垣を「登り石垣」だと定義するのであれば登り石垣なのですが、世の中で認知されている登り石垣は、登城路などとは離れたところに設けられ、斜面の横移動を遮断するだけでなく、「城内」と「城外」とを仕切る目的も持たされているような気がします。米子城の登り石垣は登城路に沿ったところにありますので、私のイメージする登り石垣とはだいぶ違うなあというのが率直な印象です。あれが登り石垣なら、掛川城の天守丸に至る導線脇の石垣も登り石垣ですよね・・・でも誰も掛川城のあれを「登り石垣」とは言わないのですが。お城の用語って、やっぱり難しい!
用語の話はさておきとして、米子城に斜面を駆け上がる石垣があったということ自体は大きな発見だろうと思います。引き続き調査が行われるようですから、米子城にもまだまだこれから新たな発見が待ち受けていることでしょう。

<2022.11.18記>
松江城に続き、米子城にも年に2回行く機会が巡ってきました。これまた松江城と同じく、1回目は盟友・お城くんのトークショー観覧のため、2回目は神有月に出雲を訪れたため。天気は実に好対照で、2回目はすっかり晴れ渡りましたが、1回目はどうにもならない雨の日で(笑)。お城くんたちと、お城くんたちをご案内する行政の皆様のご一行にちゃっかり紛れ込みましたが、やっぱり行くんですねー、こんな雨の日でも(笑)。折しも山麓の枡形の発掘が終わったところということで、掘り込まれた石垣裾や、無造作におかれた出土物などを見物しました。江戸時代に遡ると思われる陶器片が石材の上に並べられていたのですが、あれはあのままになってしまうのだろうかと心配しておりましたところ、2回目の訪問時には石材もろともまるごと撤去されていました。たぶんいずこかにちゃんと運ばれていったのだろうと思います。よかったよかった。
天気さえよければ米子城の眺望は最高です。西側には中海が静かに横たわり、東側には大山が文字通りどどん!と聳え立つ雄大なパノラマ。中海と大山はちょうど正反対に位置するので同時に見ることができないのですが、言い換えればそれだけ贅沢な風景が360度広がっているということ。米子城は、本当にいい場所に立っているお城だなあと思います。
ランク 国史跡、続100名城、こんな城、鳥取県2位
石垣、堀
創築:文明2(1470)年?、山名氏 改築:慶長5(1600)年、中村一忠
山名氏、吉川氏、中村氏、加藤氏、池田氏(米子藩、175,000石)
アクセス  米子駅から歩く場合は、駅前の通りをまっすぐ進んで700mほど先の加茂町2丁目交差点を左折すれば、ほどなく大手門に到着します。大手門前に綺麗な駐車場が整備されましたので、こちらを利用しましょう。
続100名城スタンプは、かつては本丸の四阿(あずまや)にありましたが、現在は撤去されて山陰歴史館に移されています。


米子城フォトギャラリー






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