羽衣石城
うえしじょう

(鳥取県東伯郡湯梨浜町)
最終更新日:2013.10.18

地図

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<2013.10.18記>
中学生の頃だったか、トタン葺きの模擬天守を空撮した写真を見た時には衝撃を受けました。手作り感満載のその天守を一目見てみたいものだと思いながら、ただいたずらに月日は流れ・・・レンタカーの眼前に聳える山の頂きに小さな天守がちょこんと立っているのを見つけたに時は、「ここだ!高っけえ!」と一人で叫んでしまいました。
炎天下とはいえ、このお城のある山だけは、絶対に上ろうと心に決めていました。駐車場には私の車だけ、辺りに人気もなく、道は険しく、道の真ん中には得体のしれない生き物の残した「痕跡」があって、数えきれないほどの蠅の群れがぶんぶんぶんぶんと、ものすごい音を立てていて。蝉は蝉で、みんみんみんみんと、これまたせわしく騒がしく鳴き続けていて。そんなどしようもなくやかましい風景が、却って一人であることを強く意識させて、暫くの間は身震いが止まりませんでした。そんな中、足の運びに合わせて軽やかに鳴り響く熊ベルの存在が、どれだけ心強かったことか。結局、山に上って降りてくるまでの間、誰ひとりとしてすれ違うことはありませんでした。
トタン葺きの天守は、私が訪ねる機会を逸している間に、木造の天守に建て替えられていました。説明によれば、木造の天守は、トタン葺きの天守の外観を模して「復元」されたのだとか。模擬天守を「復元」した天守というのは、全国探してもここだけでしょう。その雄姿を見られただけでも、このお城に来た甲斐がありました。
Data
ランク 「鳥取県4位」
天守(模擬)、石垣、土塁
創築:貞治2(1366)年、南条貞宗
南条氏
南条氏が築いた、南条氏のためのお城です。南条氏の出自ははっきりしませんが、南北朝時代以前から国人領主として活躍していたことが文献等から知られており、伝承では貞治2(1366)年には羽衣石城が築城されていたもののようです。険しい山の上に築かれた立地や、細長い曲輪を連ねた山頂部の縄張りは、南北朝時代のお城の延長線上にあると言われれば確かにその通りで、かなり古い段階からお城として使われてきたものでしょう。
戦国時代になっても尼子氏や毛利氏と上手に付き合いながら、ずっと羽衣石城に踏みとどまることができた南条氏というのは、類まれなバランス感覚の持ち主だったのではないかと思います。ところが最後の最期、関ヶ原の戦いで西軍側に属することとなり、城も所領も失うこととなります。羽衣石城は南条氏の没落後は廃城となっていますから、羽衣石城はまさしく、南条氏のためのお城です。
お城は現在模擬天守が建っている山頂の本丸を中心に、腰曲輪と細長い二の丸を連ねています。山頂の天守は平成2(1990年)の建築による模擬天守ですが、その天守は昭和6(1931)年、南条氏の子孫が私財を投げ打って建築したトタン葺きの天守の外観を真似て作られたそうです。このお城、どこまでも南条氏のためのお城であり続けています。山腹には羽衣石という大きな石を巡る場所があったりして、なかなかに険しいです。山麓の駐車場から30分とかからずに山頂に辿り着けますが、登る際には足回りを中心に、しっかりとご準備下さいね。





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