鹿野城
しかのじょう



所在地:鳥取県鳥取市鹿野町鹿野
最終更新日:2019.8.23

   
<2013.10.15記>
昔むかしに持っていた本に、「山の麓の学校を囲む二重の堀の航空写真」がとっても印象的なお城が掲載されていました。その本自体を手放してしまったため、それがどこのお城だったのかがわからないまま、長い年月が過ぎました。頭の中で「それは三日月陣屋だ」と思い込んだ時期もあって、わざわざ三日月陣屋に立ち寄ったのに、二重の堀がなくて学校もなくてがっかりしてみたり。
それがある日、Yahooの地図を見ているうちに偶然鹿野のあたりにさしかかり、「ここだ!」と直感しました。長年の疑問が氷解する時の、それはそれは気持ちよかったこと。
2012年の夏に山陰を旅する機会を得て、意気揚々と鹿野にも足を運びました。期待通りの水堀が、学校の周りを二重に取り囲んでいました。お堀端の喫茶室でアイスコーヒーを頼み、火照った心と身体をゆっくりと冷やして、散策開始です。振り返ればお堀の白鳥がばたばたと羽音を立てて、餌を手渡す少年にすり寄っていくところでした。
もともとは国人領主・志加奴(鹿野)氏のお城だったと伝えられ、天文13(1544)年には尼子晴久によって鹿野一族が殲滅させられた記録が残っているようです。一時期山名氏が拠ったこともありましたが、羽柴秀吉による鳥取攻めの後、天正8(1580)年に亀井茲矩がこの地に封じられ、勇躍城を築いたもののようです。亀井茲矩はかなりな変わり者だったと伝わり、秀吉に特に願い出て「琉球守」の称号を得たことや、鹿野城に「オランダ櫓」「朝鮮櫓」など、異国の名称を付した櫓を上げたりしたそうです。進取の気質に富んだ革新的、外交的な人物だったのでしょう。あるいは本気で海外に羽ばたこうとしていたのかもしれません。
亀井氏は津和野に異動となり、鹿野の地は鳥取藩の一部となります。鳥取藩の池田氏によってお城が修築されたこともあるようで、このお城からは池田氏の揚羽蝶紋の瓦も出土しています。一国一城令の中でも例外的に存続が認められたお城のようですが、正保元(1644)年には廃城となったようです。
もっともその後も何らかの形(隠居所とか)でこのお城は使われたようで、そのおかげで現在まで二重の堀が残されたのでしょう。明治になってほんの一瞬、形式的に「鹿奴藩」が成立したこともありましたが、実質的には鳥取藩の中に取り込まれていました。
お城は山上に本丸を置き、山麓に二の丸、三の丸が構えられていました。山腹にも西の丸などの曲輪が随所に配されましたが、虎口などはあまり作り込まれなかったようです。近世城郭にしては築城年代が古いのも一因かもしれません。ただ山麓の堀の景観は素晴らしく、古城の雰囲気を十分に醸し出していて、うっとりとお城見物に浸れます。

<2019.8.23記>
2018年の秋、鳥取を訪れたついでに鹿野城にも立ち寄りました。さてあの懐かしいアイスコーヒーを、と思ったら、時間の関係か、喫茶室はもう閉まっていました。
ランク 鳥取県7位
石垣、堀
創築:不明、志加奴氏、改築:天正8(1580)年、亀井茲矩
志加奴氏、亀井氏、池田氏(鹿奴藩、30000石)
アクセス  鹿野城は鹿野城跡公園と学校(鳥取市立鹿野学園)になっていますが、鉄道が近くにないので車で行かれることをお勧めします。城跡公園にはきっちりとした駐車場がないようですが、特に車が多いわけでもないので駐車スペースには困らないと思います。


鹿野城フォトギャラリー






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