一宮城
いちのみやじょう



所在地:徳島県徳島市一宮町西丁
最終更新日:2019.3.17
<2015.4.21記>
一宮城の麓にある阿波一宮神社の駐車場はなんだかとっても車を停めにくいので、近隣の大日寺駐車場に停めようと思ったのですが、どういうわけかこれまた大混雑。法事でもあったのでしょうか。後で車を出せなくなったらどうしよう、と思ってしまうような場所しか空いていなくて、どきどきしながらの登城となりました。
想像以上に本格的な山道を登っていくと、時折小雨がぱらつくあいにくの天気の下、薄霧にけむる尾根道の先に、各種サイトでよく見かける石垣がぼんやりと現れました。人影見えぬその光景は、どこか神々しくさえもあり。
石垣の向こうに、更に城域が広がっているとのことでしたが、折悪しく雨がちな中、足元があまりにも覚束ないため、途中で引き返したのでありました。徳島城でずっこけなければ先まで進んだのかもしれませんが(笑)。
一宮城は、阿波守護であった小笠原氏の一族・長宗が南北朝時代に築いたのが始まりなのだそうです。南朝の元号でいうと、延元3(1338)年のことだとか。足利尊氏が室町幕府を開いた年ですね。一宮を本拠とした小笠原氏は一宮氏を名乗り、阿波守護が細川氏に変わった後も有力国衆として阿波国を支えます。細川氏から三好氏の時代となり、三好氏の生き残り・十河存保が阿波の実質支配者となった頃には十河氏と阿波の覇権を競うまでになりました。この頃の一宮氏当主・成祐は長宗我部元親と結んでいたようですが、天正10(1582)年に成祐はその元親に謀殺され、一宮氏は滅亡してしまいました。
一宮城は長宗我部氏によって現在の南城部分が増築され、豊臣秀吉の四国侵攻に対抗しますが力及ばず、阿波国は蜂須賀正勝・家政親子に与えられることとなりました。蜂須賀氏は一宮城を本城として、現在残る石垣を北城の中心に築きますが、やがて徳島城が完成するとそちらに移り、一宮城は「阿波九城」と呼ばれる支城群のひとつとして機能します。最後は寛永15(1638)年、一国一城令によって廃城となりました。
一宮城は南北朝時代の山岳城郭をベースとして、戦国時代に順次増築され、長宗我部氏と蜂須賀氏によって段階的に近世城郭へと仕上げられていきました。そのため、山上に登れば登るほど近世の色が強くなるという特徴的な色彩を有しています。総石垣で築かれた本丸は、いわゆる織豊系城郭の典型例として紹介されます。ここだけでも十分に一見の価値があるお城ですね。

<2019.3.17>
続100名城に選定されたことを記念しての再登城を、2018年の夏に果たしてきました。前回訪問時から大きく変わったのは、主郭近辺で何やら発掘調査が行われたらしいということ。調査結果が公表されたかどうかもわからないのですが、きっと何らかの発見があったことでしょう。
前回は何気なく通り過ぎた(主郭の石垣を早く見たかった)のですが、今回は登城途中にある門跡にも目が行きました。恐らくお城が現役だった頃から残る石段を登って門を入り、左に折れると尾根伝いにまっすぐ主郭に向かう場所です。その場所に建っていたであろう門は恐らく他の門より立派で、「ここからが城の中心部」であることを示す威厳に満ちた門だったことでしょう。そんなことを考えながら歩くのも、お城歩きの醍醐味ですからね。
Data
ランク 国史跡、続100名城、百選、徳島県1位
石垣、土塁、堀
創築:延元3(1338)年、小笠原(一宮)長宗、改築:天正14(1586)年以降、蜂須賀家政
一宮氏、蜂須賀氏
阿波一宮神社の駐車場はないと思った方がよいと思います。神社に入る道も狭いですし。車なら一宮神社正面の大日寺の駐車場が大日寺の西100mほどのところにありますので、そこをお借りするのがよさそうです。
一宮神社の東にある角のところに一宮城への案内看板があります。少し進むと左側に登山道が現われます。続100名城スタンプは、登山道入口にある案内看板のところに設置されています。無人のスタンプなので、後に使う人のために使用後はしっかり元に戻しましょう。


一宮城フォトギャラリー





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