宇都宮城
うつのみやじょう

(栃木県宇都宮市)
最終更新日:2015.5.2

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<2015.5.2記>
子供の頃に読んだ本では、宇都宮城は完全消滅したお城として記載されていたものでしたが、ある時から復興の機運が盛り上がり、本丸土塁の三分の一くらいが復元され、櫓が二つ建ちました。土塁の内側がコンクリート造りになっているとか、復元にあたってはいろんな批判もあったりしたお城ですが、個人的には「そこにお城があったんだ」という気持ちを大事にすることそのものが大事だと思っているので、こういう復元も大いに結構だ、と思っています。現に私は、この復元土塁と櫓を見に、東京から宇都宮まで何回となく出かけているのですから。
Data
ランク 「100選」
土塁、堀
創築:平安末期、宇都宮宗円 改築:元和5(1619)年、本多正純
宇都宮氏、蒲生氏、奥平氏、本多氏、奥平氏、本多氏、奥平氏、阿部氏、戸田氏、松平(深溝)氏、戸田氏
(宇都宮藩、77000石)
江戸時代以前には関東の名族・宇都宮氏の本拠地として長く栄えました。宇都宮氏は俵藤太・藤原秀郷の流れを汲む藤原宗円を祖とし、以後代々宇都宮氏を名乗ります。22代目の宇都宮国綱の時、はじめは豊臣秀吉ともうまくやっていきますが、何かのきっかけで秀吉の不興を買い、宇都宮18万石を召上げられ、大名家としての宇都宮氏は消滅しました(直系はその後、水戸藩の家臣として代々相伝えます)。
宇都宮氏改易後の宇都宮には蒲生秀行が入り、慶長6(1601)年には奥平氏が入ります。が、宇都宮城が最も充実したのは元和5(1619)年、徳川家康の懐刀・本多正純が宇都宮藩主になってから。ここで宇都宮城の拡張工事が行われていますので、宇都宮城の最終形はこの時に形作られたとして間違いないでしょう。この改築時にいわゆる「宇都宮釣り天井事件」が起こり、それがきっかけで本多正純は改易になったという説話が流れましたが、はてさてどんなもんなのでしょう。
宇都宮城は関東の都市部にある他の多くの土の近世城郭と同じく、ほぼ真っ平にならされてしまいましたが、本丸周辺だけは公園としてスペースが残されました。平成の世になってこのお城を復元しようという機運が高まり、土塁の一部とふたつの櫓(清明台、富士見櫓)が平成19年に完成し、お城らしさがちょっぴり蘇りました。





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