西方城
にしかたじょう



所在地:栃木県栃木市西方町本城
最終更新日:2020.12.21

   
宇都宮氏の一族である宇都宮景泰が鎌倉時代の終わりに西方に入り、西方氏を名乗ったのが西方城と西方氏の始まりと言われています。以後、ほぼ一貫して西方氏(宇都宮氏)の城であり続けるようですが、宇都宮氏の支配領域の中では最も辺境に位置し、宇都宮氏とは敵対関係にある皆川氏の本拠地である皆川城にもほど近い場所であるため、皆川氏と、皆川氏が従属した後北条氏によって、たびたび脅威にさらされていたようです。そのせいか、西方城の構えはかなり発達しています。城内の通路は随所で折れ曲がり、枡形門や馬出し等、戦国城郭としては最も進んだ縄張りを有する、極めて技巧的なお城です。また、虎口の一部には石垣が用いられていたのではないかと思わせる痕跡も見られ、万一発掘調査がなされることがあれば、結構多くの発見が見られるのではないかと期待できるお城でもあります。
西方氏は宇都宮氏と運命を共にすることとなり、西方の地には関ヶ原の役の後、藤田信吉が15000石で封じられます。藤田信吉は西方城の東南に新たに小さな城郭を構え(西方陣屋)、この時点までに西方城は完全に廃城となりました。
地元では西方城を守り、世間にもっとアピールしようという動きが広がっています。西方城のミニチュア版(立体模型)が作られた他、かなり詳しい案内板も整備された模様です。かつては藪の中にあったお城ですが、現在ではかなり見学も容易になっています(ただし、ちょっと山が高いですが)。

ご興味のある方は、特集ページもお読みください。

<2011.12.17記>
栃木県の西方に、石垣の残る「陣屋」跡があると聞き、仲間を募って西方まで出向きました。陣屋をやっつけた後、その背後にある西方城にも、どうせなら行ってみようではないか、ということになり、えっちらおっちら山を登って行きました。登ってみるとこれが、なかなかどうして立派な山城です。西側をゴルフ場で削られていることを除けば、ほぼまるまる廃城時の姿のままではないかと思われます。
しかも・・・・広い!
同じような面積で、同じように土塁に囲まれて、同じように枡形の門を構えた曲輪が4つ、5つと連なって、T字になった尾根の先には、更にまた別の曲輪が連なっています。十分に技巧的でもあり、これほどの遺構を持つお城がなぜ世の中で知られていないのか、全く不思議な気持ちになりました。
ちなみに、同行した小学生当時の息子が細い木を拾って槍に見立て、ぴょんぴょん飛び跳ねながら辺りを走り回り、以後、城仲間の間では息子のことを「マサイくん」と呼ぶようになりました。ここはその名前の由来の発祥地です。

<2015.7.11記>
西方城への最初の訪問から3年以上の時を経て、改めてお城仲間によるオフ会を開催しました。下見を含めて2回訪ねましたが、この3年の間にずいぶん整備が進みました。草が刈られたエリアが広がり、恐ろしく丁寧な解説板が設置されています。虎口への入り方とか防御の仕方とか、これくらい丁寧に解説してもらえればわかりやすいですよね。お城そのものも参加者から大変な賛辞を受けていました。西方城、やっぱり素晴らしいお城だと思います。

<2020.12.21記>
久しぶりの西方城訪問は、発掘調査報告会への出席という形で実現しました。ここ数年に亘って発掘や赤色立体図による分析等が行われ、その過程でかつて薮だったところも伐採され、見えなかったところがよく見えるようになってきました。考えてみれば違和感満載だった堀底通路直登ルートの他にもいくつかの登城路が見つかったようですし、かなり多くの箇所で「石」が用いられていたこともわかってきました。また、曲輪を築くにあたっては尾根筋を大きく削って平場を造り、削った土で更に広い平場を造成していたこともわかってきたそうです。主郭にはいくつかの石が露出し、私もこれは庭園なのではないかと推測していた場所だったのですが、発掘調査の結果は庭園であったことを比定するものとなりました。この石はかつて山頂を構成していた岩盤の名残で、何らかの事情によりこれらの石だけが平地として造成されずに残されたのだとか。逆に言えば、それだけの岩盤を削りだして主郭の平場を構築していることになり、このお城の造成にはどうやらとてつもない土木量が投入されたもののようです。さてそうなると、最終的な築城主体は誰だったのでしょう。西方氏の時代まで遡るのはちょっとしんどいのかもしれません。西方氏から藤田氏までの間にこの地域を支配した結城秀康の時代に整備されたのでは、との声もあるようですが、確かにそれくらいの「大資本」でないとこれだけのお城を築くのは難しかったかもしれませんね。秀康は徳川家康(実父)と豊臣秀吉(養父)という天下人二人を「父」に持つ傑物で、武勇に優れていた反面、おのれの存在意義に終始悩んでいた人物ともされていますので、ひとつやふたつ秘密基地のようなお城を築いていても不思議はないのかも、とも。
調査の結果を踏まえ、いよいよ国史跡の指定に向けた活動が本格化するのかもしれません。西方城が全国の注目を集める日は、もうすぐそこまで来ているような気がします。
ランク 栃木県10位
土塁、堀
創築:永仁元(1293)年?、宇都宮(西方)景泰
西方氏、結城氏?、藤田氏?
アクセス 県道177号線から、小さいですが丁寧に案内看板が設置されていますので、看板を見失わなければ西方城の山麓まで辿り着けるはずです。山麓には専用の駐車場も整備されました。この駐車場から西方城だけでなく、隣の二条城にも行くことができるようになっています。


西方城フォトギャラリー





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