水口館
みなくちやかた

(栃木県大田原市)
最終更新日:2015.5.21

地図

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<2015.5.21記>
栃木の城を攻めようとあちこち地図を眺めていたとき、航空写真地図に「おや」と思う場所が浮かび上がりました。上の「地図」のリンクから写真をご覧頂ければ、その不思議な陰影に気づいて頂けるのではないかと思います。
「こりゃ、中世城館の残骸じゃないですか。」
誰に言うともなくつぶやいて、早速現地に赴きました。そこは車があれば比較的容易に辿り着ける場所です。旧陸羽街道(県道72号線)から那須赤十字病院に向けてハンドルを切れば、病院の裏側にその光景が広がっています。
田んぼの中に、「Ω」の文字をちょっと広げたような土塁がもっさりと。
どうしてここだけ、こんな風に土塁が残ったのでしょう?この土塁を崩してはいけないと代々相伝えた地元の皆様に感謝すればよいのか、それとも何かもっと大きな偶然が、この土塁を守り続けたのか・・・もしかしたら、長らくこの地を治めた大田原氏の遺徳によるものなのかもしれません。
Data
ランク -
土塁
創築:南北朝時代?、大田原康清 改築:天文11(1542)年、大田原資清
大田原氏
那須七騎(那須氏、芦野氏、伊王野氏、千本氏、福原氏、大関し、大田原氏)のひとつである大田原氏の最初の本拠地だった館です。大田原氏はもとは武蔵七党(七ばっかり・・・)のひとつ丹党の出で、南北朝時代に北関東へと移住してここ大田原(大俵)に居住し、那須氏に仕えたもののようです。那須七騎のほとんどが那須一族であることを考えれば、大田原氏の出自も出世も出色だったのではないでしょうか。
大田原氏は16世紀半ば、隣地の大関氏との抗争に敗れていったんこの地を去りますが、天文11(1542)年、遠く越前の朝倉氏のもとで力を蓄えた大田原資清が逆に大関氏を打ち破り、水口館を奪還することに成功します。それから天文14(1545)年、資清が大田原城を築いて移るまでの間、水口館は大田原氏の本拠地として最後まで機能することになります。もしかしたらそんないきさつもあり、「大田原氏発祥の地、かつ中興の地」として、大田原藩の藩主となった大田原氏によって長らく保護されたものなのかもしれません。
現在の水口館は田んぼの中に「Ω」状の土塁を残すのみとなりましたが、かつては堀が巡っていたようで、周囲の田んぼが一段低くなっています。見どころとしては実にそれだけですが、田んぼの中に取り残されたように存在する土塁にはある種の威厳すら漂っているようであり、それだけでも一見の価値あるのではないかと思ってしまいます。





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