祇園城
ぎおんじょう

(栃木県小山市)
最終更新日:2013.8.17

地図

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<2013.8.17>
祇園城を訪ねたのは、桜真っ盛りのシーズンでした。車がおけるのかいな・・・という心配もありましたが、お城の奥にある未舗装の駐車スペースにはそれほど多くの車もなく、花見の人でごった返すでもなく、案外すんなりとお城に入れました。この年は桜の開花が早く、いわゆる「桜まつり」がまだ始まっていなかったからかもしれませんが。
お城のエリアに入ってすぐ、すっぱりと空堀で仕切られたスペースに出ました。町の真ん中にある公園としては十分すぎるくらいの「お城の匂い」が感じられます。事前に想像していたよりはずっと立派な土塁と堀に、「ほほう」と感心してしまいました。イメージとしては佐野市の佐野城によく似ていますが、佐野城よりももう少しお城っぽい感じです。
早咲きの桜は既に満開。あまりにも青い空の下、うっすらとピンクに染まる桜の木々が、これ以上にないコントラストを描いていました。よく見れば、桜の枝にはメジロの姿もちらりほらり。どこまでものどかな、春の古城でした。
Data
ランク -
土塁、堀
創築:久安4(1148)年?、小山政光
小山氏、本多氏
小山氏と小山城の歴史は古く、創築は鎌倉幕府成立よりもずっと早い久安4(1148)年、藤原秀郷の流れを組む小山政光によって築かれたと伝えられています。以来近隣の鷲城、中久喜城とともに小山氏の中核的城郭として、戦国時代の終わり頃まで機能しました。小山氏も関東の諸豪族の例に漏れずいろんな運命を辿りますが、最後は小田原北条氏の指揮下で小田原の役を戦い、戦後改易されることで独立大名としての命運を絶たれました。その後は結城氏の家臣として、一族の一部は越前へと移っていくようですが。
祇園城は小山氏の城郭の中でも中心的なお城だったようです。当初は鷲城が中心だったようですが、いつの頃からか祇園城が本城となったようで、後に北条氏や本多氏の手も入っているようですが、鷲城よりも計画的な、しっかりした縄張りを持ったお城になりました。
このお城が有名になったのはお城としての攻防戦よりも、むしろ関ヶ原の前哨とも言える「小山評定」だったのではないでしょうか。徳川家康はこの場所で、豊臣氏から預かった諸大名に対し、挙兵した石田三成に呼応してすぐに西に戻るか、徳川氏の指揮下に残るかという究極の選択を迫りました。この会議が変な方向に流れて諸将が西に帰り、徳川家康が関東に孤立したとしたら、日本の歴史はどうなっていたんでしょうね。
ある意味歴史の方向性を決めた場所でもある祇園城は、現在は町中の公園として、土塁や堀などの遺構を現在に伝えています。





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