芦野城・芦野陣屋
あしのじょう・あしのじんや


所在地:栃木県那須郡那須町芦野
最終更新日:2021.5.15

   
<2015.5.6記(2021.5.15改)>
芦野の地には漠然と興味があって、機会を得て栃木県の城を巡ることにした日、さしあたって芦野を目指すことにしました。芦野にしても近隣の伊王野にしても、鉄道も高速道路も通ってないところなのにやたらと長い国道(294号)が貫通していることも、ちょっぴり気になっていて。
芦野に着き、那須歴史探訪館(芦野城を訪ねる際もカーナビでここに合わせると便利)で展示物を眺めているうちに、かねて感じていた漠然とした疑問が氷解しました。古来東北に向かう道は奥州街道ではなく、東山道だったんですね。その東山道が貫いているのが伊王野と、ここ芦野。ですから芦野は古代以来、幹線道路に接して大いに栄えた場所だったのでした。
奥州街道が東山道からずっと外れた場所を通ったことで、この町は昔の面影を残したというのは皮肉と言えば皮肉ですが、そのおかげで芦野には、芦野城と芦野陣屋と、それ以前に芦野氏が住んでいた芦野氏館とが全て形を残すこととなりました。
芦野氏はいわゆる那須七騎(那須氏、芦野氏、伊王野氏、千本氏、福原氏、大関氏、大田原氏)のひとつで、那須資忠の四男・資方が芦野を名乗ったことが始まりと言われています。いつの時代かというと、資方が没したのは文和4(1355)年のことなので、南北朝時代から室町時代初めに生きた人ということになりますね。
初期の芦野氏は芦野氏館を常の住居とし、詰めの城を館山城としていたもののようです。時は下って天文年間、時の当主・芦野資興は太田道灌に師事した逸材で、芦野城もこの資興によって築かれたもののようです。この芦野城は芦野陣屋より一段高いエリアで、小さな曲輪を堀切で仕切る比較的単純な構造ですが、切岸などは今もシャープで、見ていて気持ちのよいお城です。
山上の曲輪とは対照的に、芦野陣屋の書院が置かれたエリアはかなりの規模を持っています。切岸も立派で、いかにも近世城郭の風情です。この一角に設けられていた門が現在城下の民家に移築されており、更にその門を模して那須歴史探訪館の正門が作られました。そのため、芦野の町は瓜二つの門が二つ建っているという、ちょっと不思議な町になりました。似たようなケースで、油山寺に移築された門を模して掛川城の大手門を復元した結果、掛川市内にも瓜二つの門が二つ建つという結果になっていますが、芦野の二つの門は歩いても行き来できる距離ですので、ちょっと面白いな、と思っています。
2021年に改めて芦野を訪れ、散歩しながら芦野城を遠望してみました。陣屋の書院が建っていたのと同じ高さの帯曲輪が芦野城の主郭下を巡っているので、遠望すると山の中腹に一本の水平線が引かれているように見えます。水平線をかなり意識してお城を構築しているのだろうと推測できるのですが、例えば同じ栃木県内の皆川城などにも見られる手法です。また、芦野陣屋の端から山裾を貫く竪堀と竪土塁も皆川城と共通した特徴です。もしかしたら下野国にはこういうお城のプランニング手法がひとつの型として確立されていたのかもしれませんね。
芦野の町には城下町だった頃の名残が随所に見られます。一部の武家屋敷には門などが残り、風情ある佇まいを見せる一方、明らかに武家屋敷だったと思われる区画が荒地となり、今にも崩壊しそうな門が草に埋もれているのを見ると心が痛みます。いつかこの門は崩れ去り、土へと還ってゆくのでしょう。それもまた歴史の流れということになるのですが。
ランク -
門(移築)、土塁、堀
創築:天文年間(1532〜1555)、芦野資興 改築:天正18(1590)年、芦野盛泰
芦野氏(交代寄合3,000石)
アクセス 国道294号線から旧奥州街道沿い芦野の城下町へと入り、芦野郵便局のところで山側に入ると那須歴史探訪館があります。その向かいの山が芦野城と芦野陣屋です。城下町にも駐車場がありますし、歴史探訪館のところにも車を停めることが可能です。


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芦野陣屋フォトギャラリー






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