足利氏館
あしかがしやかた



所在地:栃木県足利市家富町
最終更新日:2020.4.27

   
<2011.10.3>
佐野の厄除けのついでにイチゴ狩りして、ラーメン食べて、アウトレットに行って・・・ついでながら、半ば強引に家族ごと足利まで足を運んでもらいました。家族としては「ただの寺」である足利氏館よりも、「坂東の大学」足利学校の方がより感銘を受け、それよりも鄙びた足利の町にこそ、大いに惹かれるところがあったようですが、そうはいってもそこは100名城のひとつ。中世城館に起源を持つこの敷地が、ほぼ旧態を保ったまま現代に伝わる奇跡に驚きつつ、古寺としての鑁阿寺も楽しみつつ、歴史の重みにひたひたと浸りながら、満足して帰ってきました。足利の町では地元の高校生が文化祭の企画の一環として、手作り品の販売店等をやっていました。そのけなげな姿や、道端にたたずむ太ったネコさんなど、短い滞在時間の中に、面白い思い出がぎゅっと詰まった小旅行となりました。
清和源氏・室町将軍足利家の本拠地です。八幡太郎義家の孫・義康が足利の地に入り、足利を名乗ったのが始まりですから、源氏の中でもかなり血が濃い方に入り、しかも足利義兼の妻は北条時政の娘・・ということは北条政子の姉妹・・・ということは源頼朝とは義兄弟・・・という大変に濃い繋がりを持っていて、当然ながら室町時代よりはるか前、それどころか鎌倉時代が始まる前から、大変な尊敬を集めてきた一族です。そんな足利氏が義兼の代に築いたと言われるのがこの足利氏館で、以来延々と足利氏の館として使われ続けました。とは言うものの、ご存知の通り足利氏は尊氏の代から「将軍家」となりますので、足利氏館は主なき館となり、館の中は義兼が建立した鑁阿寺が発展し、いつの間にか鑁阿寺100%となってしまいます。それでも境内には悲運の13代将軍・足利義輝寄進と伝わる門があったりと、足利氏とは切っても切れない間柄を維持していたようですし、鑁阿寺が占拠してくれたおかげで、この貴重な館が現代まで伝わることにもなりました。
現在の鑁阿寺を囲む堀は、東西約200m、南北約150mの規模を有し、平均的とされる武家館の4倍くらいの面積を有しています。さすがは足利氏・・・ですが、最盛期には東西南北それぞれ500mほどの領域を占めていたようですから、足利氏館、どれだけでかかったのか。この貴重な歴史遺産を「城館」として「日本100名城」に列したのは、まさに卓見と言うほかありません。

<2019.11.5記>
100名城スタンプの2周目で「年末でもスタンプが押せる城」を探したらここに辿り着きました。寺社仏閣はむしろ年末年始にこそ賑わう場所で、事務所や社務所にスタンプがあれば年末年始でもまず間違いなく押せますよね。このエリア、太田金山城、足利氏館、唐沢山城と、年末年始OKな100名城・続100名城が並んでいますので、かなりお勧めできます。そのかわり、年末年始に行くと残念な思いをするのが足利学校。足利氏館のすぐ近くにあって、こちらも周囲が堀に囲まれていて、見るからに「いい感じ」なのですが、年末年始は休業なのでご注意あれ。

<2020.4.27記>
何度目かの訪問で、「足利氏館の西側」から入る機会に恵まれました。今まで廊下橋のついている南側と、東側からは入ったことがあったのですが、西側は初めて。改めて考えてみたら、足利氏館は今でも全域が鑁阿寺の境内で、四方に開かれた全ての出入り口に門が設けられているんですね。館だった時代に四方に開けていたかどうかはわかりません(普通に考えたら四方ではなさそうです)が、四周に完備した堀を持ち、四方に門を構える鑁阿寺は今でも鉄壁の館でしょう。実は、せっかく100名城スタンプを押すために足利氏館を訪れてみても、お城らしくない(寺でしかない)景観にテンションが上がらないのか、はたまた案外広いからなのか、なかなかまるっと一周回ったという人の話を聞いたことがありません。かく言う私もよくよく考えてみればまだ一周回っていないような気がします。よし。今度こそ一周回ってみよう。
ランク 国史跡、100名城、百選、こんな城、栃木県1位
土塁、堀
創築:12世紀?、足利義兼
足利氏
アクセス 足利駅からなら1kmくらいの道のりです。車なら足利学校の東南にある「太平記記念館駐車場」が足利市内観光にも便利です。足利学校・足利氏館(鑁阿寺)はあちこちに看板が出ていますので、看板に従って進めば間違いないと思います。
100名城スタンプは鑁阿寺本堂に備え付けられています。


足利氏館フォトギャラリー





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