横須賀城
よこすかじょう

所在地:静岡県掛川市西大渕
最終更新日:2024.3.11

<2011.10.2記>
中学2年の冬だったのではないかと思います。父に頼んで高天神城と横須賀城に連れて行ってもらいました。手には「日本城郭体系」の静岡編が。中学生の手には相当重かったのではないかと思うのですが、あの本を手にしながら藪の中を突き進む私の写真が残っていますから、実際にあの本を抱えてお城を歩き回っていたのでしょう。変な中学生です。そんな中学生の脳裏に刻まれた、かすかな記憶。

「なあ、こんな茶畑に城があったのか。」
「間違いないはずなんだけど・・・石垣も何もないからね。」
「この丸い石の石垣はどうなんだ?」
「茶畑のじゃないかなあ。丸い石垣なんて見たことないし。それより、この藪の奥に池があるって図面に出てるんだけど・・・」
「行ってみるか?藪だぞ。」
「鎌、持って来ればよかったね。」
「・・・おい、あれじゃないか?枯葉で埋もれているが、水面が見えるぞ。」
「ほんとだ!」
「すげえなあ。山の中に池か。こりゃ、確かに城だな。」

丸い石の石垣は、この牧の原一帯の茶畑では普通に見られるもので、お城の石垣と言えば野面にしろ打込みハギにしろ、ごつごつした石を積むのが常識という頭があって、目の前の石垣がお城の石垣として見えていなかった可能性はあります。ただ、いずれにしても茶畑と藪だった昭和50年代のこの城が、平成の世になってこのような姿で復元整備されようとは、夢にも思いませんでした。今では我々父子が「探検」した池も、綺麗に復元整備されていることでしょう。写真で見る池は、我々が探索した際の実感よりも、ずっと本丸に近いところにありました。
復元されたこのお城を見る度に、中学時代に藪と格闘した記憶が蘇ります。想像力には限界があるのだということも、同時に思い知らされます。かつての城の姿を明らかに、わかりやすくするという点で、復元整備はやはり評価すべきものなのでしょうね。それでもどこかで、あのわくわくした探検気分がもうこの城では味わえないのだと思うと、ちょっとだけ淋しい気がしたりもします。

横須賀城は、珍しく築城年代が明確に分かっている戦国城郭であり、臨時城塞であったはずのものが明治までそのまま使われた点でも、ちょっと珍しいお城です。もともとは武田氏の最前線基地であった高天神城に対抗するため、徳川家康が大須賀康高に命じて築かせたお城であり、高天神城が落城し、その役割を終えた後も、そのまま大須賀氏が城主としてこの地に留まっていました。小田原の役で徳川家康が関東に移封されると大須賀氏もまた関東に移動し、あとには渡瀬繁詮が入ります。渡瀬氏といえば太田金山城(群馬県)の由良氏と同族で、小田原の役では由良氏は後北条方に属しているわけですが、小田原の役直後に、一族がこんなところに領地をもらっているんですね。ただしこの時の治政は目茶目茶で、強引な太閤検地の実施により増税に苦しむ声が多く、豊臣秀次事件に連座して切腹となっていますが、その実、領内の治政があまりにもひどかったからという説もあったりします。
その後、有馬氏を挟んで大須賀氏が再び横須賀に返り咲きますが、この時の領民の喜びっぷりはものすごかったと言います。余談ですが、明治になって横須賀の地は「大須賀町」に改名されます。これはもちろん、神奈川の横須賀との区別の意味もあったことでしょうけれども、何よりも善政を敷いた(あるいはその前があまりにも酷かった)大須賀氏を慕うあまり、町の名にした、という逸話が残っています。
大須賀氏は当主忠次(榊原康政の孫)の時、榊原家に適切な男子が存在しなかったために榊原家を継ぐこととなり、館林城に移ります。その後は譜代大名がころころと入れ替わりながら、明治まで横須賀藩として存続し、横須賀城も明治までそのまま使われることとなりました。
昭和の頃には茶畑でしたが、平成になって発掘調査が実施され、その成果をもとに本丸の石垣などが復元整備され、綺麗な城址公園となりました。今も順次、範囲を拡大しながら整備が進められています。
なお、近隣の撰要寺には、横須賀城の城門が移築され、今も現役の門として使用されています。

<2017.7.9記>
実は私も知らなかったのですが、横須賀城の書院は現存しているのだとか。知人に言われるままに掛川市内の油山寺を訪ねたところ、なるほど「横須賀城の書院」であった建物が現在もお寺の庫裏として使用されていました。これは貴重ですね。教えて頂きありがとうございました。

<2024.3.11記>
2023年の春に開催された「にの企画」のプライベートツアーにご招待頂き、中井均先生の案内で高天神城を巡った後、中井先生の愛弟子で掛川市にお勤めの柴田さんにご案内頂きながら、横須賀城をぐるぐる歩きました。昔から見ているだけに知っているようで知らなかったといいますか、さすがに専門家にご案内頂くと見えていたようで見えていなかったものが見えてくるといいますか。いろんなところで目からうろこの見学会でした。
横須賀城といえば、まず思い浮かべるのが「玉石垣」。若干やり過ぎの感もある玉石積みの石垣は、全国あまたのお城がある中で唯一無二の異彩を放つ、横須賀城の横須賀城たる所以とも言える特徴です。でも横須賀城の魅力は決して玉石垣だけではないんです。
たとえば、城域の保存状態の良さは一級品です。かつては学校や工場などに城地が席捲され、本丸も筆者の記憶では茶畑だったはずですが、現在では城跡保存が優先され、城域のほとんどが空地となりました。そのためかつての塁線なども、三の丸までほぼ完璧に辿ることができるようになっています。また、北東に連なる尾根筋から城域を完全に分断するための堀切のダイナミックさは、堀切の存在自体があまり知られていないだけに見つけた時の感動がたまりません。実際、ほとんどの参加者が堀切の存在を知らなかったので、案内された際には大歓声の嵐でした(大げさかな?)。また、本丸の東側から本丸を見上げた時の切岸の見事さも特筆ものですし、北東隅の曲輪には江戸時代の図面にも描かれた池が今も水を湛えて残されています。
100名城にも続100名城にも選ばれなかった横須賀城ですが、同じ静岡県内から続100名城に選出された興国寺城と比較しても何ら遜色のない(むしろ上をいく?)お城だと思います。車がないとちょっと訪ねにくいお城ですが、季節を選ばないお城でもあります(薮もなければ雪も降らないし山にも登らない)ので、見どころ満載の横須賀城、本当にお勧めです。
Data
ランク 国史跡
門(移築)、石垣、堀
創築:天正6(1578)年、大須賀康高 改築:慶長6(1601)年、大須賀忠政
大須賀氏、渡瀬氏、有馬氏、大須賀氏、松平(能見)氏、井上氏、本多氏、西尾氏(横須賀藩、35000石)
国史跡・横須賀城址公園として綺麗に整備されましたので、カーナビなどでも直接示してもらえるようになりました。どうしても出ない場合は横須賀高校か掛川市役所大須賀支所あたりを目指していけば、案内看板によってその西側にある城址公園まで丁寧に案内されることと思います。駐車場完備の綺麗な公園です。


横須賀城フォトギャラリー





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