社山城
やしろやまじょう



所在地:静岡県磐田市社山
最終更新日:2017.6.20

   
<2017.6.20記>
社山城には、武田氏による改修の跡が濃厚に残っていました。なかなかの山城だと聞いてはいましたが、現地を訪ねてなるほど納得。北側の台地から主郭に向かう道は意図的に屈曲され、現在の散歩道も桟道になっています。恐らくお城が現役であった当時から、ここには桟道がかけられていたのでしょう。主郭下をぐるっと巡る横堀も、二郭の外側を画する深い堀切も、ひとつひとつが意味を持ち、考え抜かれた縄張であるように見受けられました。全体にキレのある遺構が多い中、二郭を仕切る堀だけが浅くて、オフ会で訪ねた際にはこれを「薄い堀切」と称したところいたくウケて(笑)、それ以来私の城仲間の間では、遺構のすごさを「濃い」、「薄い」で表現するようになりました。
社山城がいつ頃から存在したのかは定かではありません。10世紀に鷺坂十郎則実なる人物が遠州に下向し、その後この地で11代続いた匂坂氏の祖となった、という伝承もありますが、匂坂氏が居住したのが社山城であることを証明する材料がありません。どうやら確かなのは、文亀元(1501)年における斯波・今川氏の抗争の際、斯波義雄なる人物が社山に在住し、今川氏によって二俣に駆逐されたという記述が「宗長日記」に出てくるあたりで、16世紀前半には遠州の支配権が斯波氏から今川氏に移り、社山城も今川氏のものとなっていたはずです。次に社山城が登場するのは武田信玄の遠州侵攻時で、元亀3(1572)年には信玄が合代島に陣取ったと「三河物語」に記述されます。この合代島は社山城近辺のことを指すため、社山城はこの時武田氏の本営として大掛かりな修築がなされたと理解するのが一般的です。その後、社山城は徳川氏によって奪取され、武田・徳川の争奪戦の対象となりましたが、武田氏の勢力が遠州から駆逐された時点でその役割を終えたものと考えられます。
そんなわけで記録をひも解く限り、社山城の最終使用者は武田氏ではなく徳川氏なのですが、横堀や巨大二重堀切等の構えは武田氏に独特なものとされ、武田氏が作ったものを徳川氏がそのまま使用したと考える説が一般です。このあたり、どうも武田氏と徳川氏の城郭を無理に差別化しようとしているようにも見受けられますね。今後の研究が待たれるところです。
ランク 市史跡
土塁、堀
創築:不明  改築:元亀3(1572)年、武田信玄
斯波氏、今川氏、武田氏、徳川氏
アクセス カーナビで検索する際には、お城の北側にある慈眼寺が便利です。慈眼寺の右下(南東)にある山にセットしておき、慈眼寺を目指せば社山城への案内看板が導いてくれるはずです。
主郭は八幡神社が鎮座し、一帯は社山公園とされていますが公園としての設備はなく、厳密には駐車場もありません。ただ北側の入り口には車を2台ほど停めるスペースがありますので、お城のすぐ近くまで車で行くことが可能になっています。


社山城フォトギャラリー





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