諏訪原城
すわはらじょう



所在地:静岡県島田市金谷
最終更新日:2023.8.13
<2013.9.15記(2018.10.5改)>
遥か昔、中学生だった私は、買ってもらったばかりの「日本城郭体系」を両手に抱え、縄張図と現地を見比べながら写真を撮ったものでした。父は父で、それなりに歴史小説を読んでいたこともあり、武田だとか徳川だとか遠州の攻防戦だとかといったものにもそれなりの知識があったものと思いますが、もとより科学者の父のこと。私を諏訪原城に連れて行ってくれたことには、息子へのサービスという意味が120%込められていたことでしょう。当の私はそんな父の配慮には目もくれず、このお城のすごさに目を丸くし、ひたすら写真を撮り、撮影場所と撮影方向を「城郭体系」に書き込んだりしていたのでした。
今も私の手元にある「城郭体系」の縄張図には、鉛筆で書きこまれた@〜Gの数字が並んでいます。今では毎年のようにこのお城を含む「静岡まーるい城ツアー」を開催していますので、このお城を訪れる機会も多くなりましたが、復習のためにこのページを開く度に、今は亡き父が残した息子への思いに胸が熱くなります。
歴史読本「日本の名城都道府県ベスト10」で、静岡県の1位を高天神城と分け合う諏訪原城には、高天神城を彩ったような壮絶な攻城戦の歴史はありません。それでもなお高天神城と並ぶほどの評価を得ている背景は、何よりその特徴的な縄張りにあると言ってよいでしょう。平面図は円を1/4に割ったような綺麗な扇形をしていて、外堀に面した出入り口には大小の三日月堀(丸馬出)が設けられ、そのほぼ全てが現在まで完璧な姿を残してきたことが大きく評価されているのだと思います。連続する空堀の迫力の凄まじさは、現地を訪ねて頂ければ十分に納得頂けることでしょう。
国史跡にも指定されているこのお城は、これまで毎年のように発掘調査が行われていて、その時代感が揺らいできています。通説では天正元(1573)年、武田勝頼が馬場信房に命じ、遠州における武田軍の補給拠点として築かせたお城で、徳川氏が武田氏から奪取した後は牧野城と改名されて西郷家員、松平家忠、戸田康長などの諸将が交替でこのお城を守ったとの記録が残り、徳川氏の関東移封に伴って廃城になったとされています。この間、徳川氏は武田氏のものをほぼそのまま使用したと考えられてきましたが、最近の発掘の成果はむしろ徳川氏による積極的な城郭改修の事実を裏付けるものとなっています。「武田氏の代表的なお城」と信じられてきたお城が「徳川氏のお城」ということになりそうな感もある昨今の状況ですが、個人的には武田氏が最初に手を入れて、徳川氏がそれを改修したものである以上、武田氏のものがベースになっていると考えても何ら不都合はないはずだと思っています。食い違い形式の枡形門や片薬研堀などは、武田氏が好んで使った手法だと思っていて、その意味でもこのお城は武田氏のお城・・というのが私の考えです。
(2018.10.5記:その後、諏訪原城の発掘成果から、丸馬出や二郭が一層しかないのに対し、主郭近辺には焼土層を含む二層が検出されていることを知りました。それすなわち、主郭=武田+徳川、二郭&丸馬出=徳川、ということの証明になりそうですよね。この結果は素直に受け止めることができました。)
そんな話はさておき、新東名が出来たことで、車でも電車でもかなり行きやすくなりました。東京からも名古屋からも十分日帰りで狙えるお城ですし、ぜひ多くの方に見て頂きたいお城だと思っています。

<2014.1.16記>
これまでの発掘成果に基づいた城門の復元案に文化庁がOKサインを出し、中世城郭としては画期的な「正式な復元」としての城門が建築されることになったようです。諏訪原城の中でも最も技巧的な「西馬出」(注:二の曲輪北馬出、なのだそうです)に「薬医門」が作られるようです。これは楽しみです。

<2017.12.13記>
上に記載した薬医門を見てきました。今のところ塀等を伴わずに単独で建っている状態で、馬出しの中あるいは城内全体の中でこの薬医門がどのように機能したのかを即座に理解するのは難しい状態です。計画では周辺の塀等も復元されるようなので、出来上がったところでまた考察したいなと思っています。
建物がなかった諏訪原城に建物ができてわかったことは、「建物があると嫌でもそこに視線が集まる」ということでした。以前はあれだけ丸馬出しの堀が目立っていたのに、薬医門が見えてくると誰もがそちらに目をやってしまうんですね。この効果はもしかしたら昔も同じで、「門があるところに視線が集まる」、あるいは「視線を集めたいところに門を作る」といったことが実際にあったのかもしれません。

<2023.8.13記>
見る度にどこかが整備されていく諏訪原城。目を見張るほどの変化ではないのですが、門が出来たり塀が出来たり、ガイダンス施設が出来たりと、いろんなものが出来ました。そんな中、40年ほど前に訪れた際に真新しかった大きな解説板だけは変わらずそこにあり続けたのですが、この解説板もとうとう新しいものに置き換わりました。門の周囲の塀はいろんな経緯があって「スケルトン」のものになったのだそうですが、門と塀がセットになったことで、二の曲輪北馬出の機能が漸く目に見えるようになりました。それほど大きな面積でもない曲輪ですが、この曲輪を更にほぼ半分、城内側と城外側とに分けることによって、出撃口としての機能といわゆるキルゾーンとしての機能を兼務させるというハイブリッドにしてハイレベルな空間に仕上げていることが理解できました。曲輪を二つに分けるという発想は、それこそ発掘してみなければわからないことですよね。諏訪原城の絵図はいくつか伝えられていますが、建物を記載したものはありません。この機能はまさしく発掘によって得られた知見ということになります。
もうひとつ、今までと違う諏訪原城を見せてくれるエリアが誕生していました。それは主郭の東側部分。恐らく横堀が続いているんだろうな、と想像できるエリアでしたが、今までは植林と薮とに阻まれてよく見えない部分でした。ここが綺麗に伐採されて、横堀に囲まれた主郭切岸が大迫力で拝めるようになりました。いや、実にいい角度ですね。いつまでも愛でていたくなるような美しい切岸を目の当たりにすることができるようになったのも、ひとえに諏訪原城の整備が進んだおかげです。整備のやり過ぎはむしろ興覚めですが、諏訪原城の整備は実に配慮が行き届いているように感じます。いつまでも大事にしたいお城ですね。
Data
ランク 国史跡、続100名城、百選、静岡県1位
門(復元)、土塁、堀
創築:天正元(1573)年、武田勝頼
武田氏、徳川氏
東海道本線金谷駅から県道381号線で山を登り、県道234号線に入ればほどなく諏訪原城の駐車場に行き当たります。国史跡でもあり、ちょいちょい案内板がありますのでまず迷うことはないでしょう。金谷駅からなら徒歩でも訪城可能です。

諏訪原城フォトギャラリー





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