勝間田城
かつまたじょう



所在地:静岡県牧之原市勝田
最終更新日:2023.11.12
<2011.11.6記>
私にとっては卒業論文のテーマにもなった、重要なお城です。最初に訪れたのは大学生の頃。まだ発掘調査後の整備がなされておらず、二の丸、三の丸も森の中でした。
木々生い茂る平地の端に明瞭に残る、土塁。
いったん細尾根で区切られた後、二の丸、三の丸とは全く様相を異にする本丸に辿り着く、不思議。
大学生の頃には、本丸から続くノコギリ状の連続堀切がくっきり見えて(今は木が大きく育ってしまい、道もなくなってしまいました)、同じお城なのに、まるで二つのお城を訪ねているかのような錯覚に陥るこのお城は、どう見ても二つの時代に分かれて機能していたようです。
そんなお城の様相と、勝間田城とともに消滅したとされる名族・勝間田氏の歴史を辿り、ひとつの論文に・・・まとめるつもりがまとまりきらないまま期限を迎え、卒業論文の評価としては異例とも言える「可」(つまり最低)の評価を受け、追い出されるように大学を後にしたという、苦い記憶の舞台でもあります。
このお城を国指定史跡に・・という動きが出ているとの噂もあります。戦国時代のはじまりを今に伝える貴重なお城として、もう少し世の中に知られてもよいお城ではないかな、と思っています。
勝間田氏の歴史は古く、保元の乱(1156年)には源氏方の武士として遠州に住む「勝間田氏」の存在が記録されています。その後も主だった戦いには必ず勝間田氏の名があり、南北朝時代にも室町時代にも結構活躍しています。また、私撰和歌集として、17000首ほどの歌が編纂された夫木和歌集(延慶3(1310)年成立)は、勝間田長清(藤原長清)の手によるものと伝えられ、勝間田城には長清の歌が刻まれた歌碑が置かれています。
勝間田城は小さな曲輪が直線状に集まった本丸付近と、広大な敷地に礎石建物や掘立柱建物が建てられた二の丸、三の丸とに大きく分かれます。一見して時代様式が異なるこのお城は、本丸付近が南北朝〜室町初期、二の丸、三の丸が戦国時代のものと考えられ、特に二の丸、三の丸はこの地に侵攻した武田氏の手によるものではないかと言われてきました。ただ、武田氏については勝間田城を使用した記録がなく、近隣の武田氏の城郭に見られる典型的な特徴(横堀や丸馬出、出構等)が見られないことから、武田氏とは無関係との考え方が提起されてもいます。
二の丸、三の丸は昭和50年代に発掘調査がなされ、前述の建物の他、元銭や木簡が出ています。木簡はこのお城に運び込まれた兵糧米に付けられた荷札であり、このお城が実戦に供されたことを示唆しています。
勝間田氏は文明8(1476)年に駿河守護の今川義忠によって滅ぼされますが、凱旋する今川義忠を勝間田氏が逆襲し、義忠を討ち取るという「快挙」を成し遂げています。その後、勝間田氏は四散(主に御殿場方面に移住したと言われます)し、勝間田氏と勝間田城は歴史の表舞台に現れることがなくなりました。
私見ですが、二の丸、三の丸が本丸より後から構築されたのは間違いないとしても、「広い」ことや土塁があることを理由として無理やり戦国後期の増築と決めつけるより、素直に文明年間における勝間田氏末期の姿を留めていると考えた方が筋が通っているような気がしてなりません。
ちなみに、出土した木簡は、牧之原氏の郷土資料館に保存されていましたが、郷土資料館の建物が平成21(2009)年の静岡沖地震で倒壊し、現在は他の場に移されているはずです。

<2020.7.9記>
改めて勝間田城の発掘調査報告書を端から端まで読んでみると、文明8(1476)年よりもう少し後の時代、1500年代初頭に分類される陶磁器も出土しているようです。逆にそれより時代が下がる遺物も出ていないので、発掘調査の結果から見れば、武田氏改修説はとりあえずなくなります。問題は「文明8年勝間田氏滅亡説」なのですが、今川義忠と勝間田氏が刺し違えた際の義忠の行軍順序と、義忠が攻撃した勝間田氏&横地氏のお城が勝間田城と横地城ではなかったらしいという点とにひっかかりを感じました。史料上は、義忠が勝間田氏と横地氏を攻めた場所は見附端城(静岡県袋井市)になっているのです。そこから掛川(掛川は遠州国内ですが、駿河守護の今川義忠が既に所領としていました)を経て素直に東海道を帰ればいいのに、なんでまたわざわざ御前崎方面へと舵を切って、わざわざ塩貝坂で討死しなければならないのでしょう。この疑問自体は私が提示したものではなく既に先学が指摘しているところではありますが、仮にこの不思議な行軍が「見付端城を落とした後、勝間田と横地の本城を攻めに行った」と考えると、勝間田城に辿り着く前の塩貝坂で義忠が討死したという事実は、文明8年時点には勝間田城が落城していなかったということを物語っているのではないでしょうか。発掘成果とこの文献上の謎とを結びつけると、勝間田城は文明8年以降も勝間田氏の城であり続けたということが言えそうな気がします。ではいつ勝間田城が消滅したかというと、1500年代に入って今川氏が伊勢宗瑞の力を借りながら遠州侵攻を進めた時期、となりそうです。これなら発掘成果とも整合しますよね。
そんな考え方をこのたび論文にまとめてみました。2020年刊行の静岡古城研究会「古城」第64号に拙稿が掲載されますので、よろしかったらご一読頂ければ幸いです。

<2022.8.20記>
2022年4月、勝間田城において勝間田城の見学会が行われ、静岡古城研究会の会長様と一緒に案内人を務めさえて頂きました。また、2022年の7月に行われた静岡古城研究会の「ふじのくに山城セミナー」で、「古城」第64号に掲載した拙稿をベースとするプレゼンをやらせて頂きました。そしてこのプレゼンに関するプチコメントを、小和田哲男先生によるYOUTUBEチャンネル「小和田ちゃんねる」に載せて頂きました。

小和田チャンネル「【書籍紹介】『静岡県の城跡 中世城郭縄張図集成(西部・遠江国版)』の刊行」
https://www.youtube.com/watch?v=c0mwQGQvMvQ

いやー、実に有難い限りです。論文を発表することの大切さと、その責任の重さをも痛感する半年間でした。実に貴重な体験でした。
勝間田城は現在、植生改良のための伐採作業が進められています。城内の木々がほぼ伐り払われた状態になっていますが、未来永劫この形なのではなく、あくまで植生変更のための一時的な伐採なのだそうですから、これだけ木がない状態を見られるのは数年間だけ、ということになるのだと思います。見るなら今、ですね。
木がなくなってみると、三郭を外側から見た時の威圧感は格別です。木がある時には今一つはっきりしなかった横矢もくっきり。筆者が訪ねた時には五重堀切はまだ木々の中でしたが、こちらのエリアも伐採が予定されているようなので、もしかしたらもう綺麗になっているかもしれません。知られざる名城である勝間田城に、今こそぜひ足を運んでみてください。
Data
ランク -
土塁、堀
創築:15世紀後半、勝間田氏
勝間田氏
県道233号線を勝間田川に沿って遡っていけば、勝間田城跡を示す大きな案内標識が現れます。そこで左折して暫く進むと、左側に勝間田城見学者専用駐車場(トイレ付)が用意されています。勝間田城はここから歩いて7、8分ほどの道のりです。

勝間田城フォトギャラリー





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