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| 福光城(物不言城) ふくみつじょう(ものいわずじょう) |
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![]() 所在地:島根県大田市温泉津町福光 最終更新日:2025.4.25 |
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| <2025.4.25記> 福光城は2022年11月11日に途中まで筆を進めながら何らかの事情で筆が止まり、やがて更新することすら忘れ去って2年以上が経過していたもののようです。何で筆が止まったのか、今となっては我ながらその事情が全くわかりませんが、ともかくも文章を完成させたいと思います。 福光(ふくみつ)城は物不言(ものいわず)城、不言(ふげん)城とも言われます。ものを言わないお城、とはなんとも意味ありげな名前ですよね。「多くを語らず」的な意味だったとして、何を多く語ろうとしなかったのか、その逸話が福光城そのものに由来するものなのか、はたまた全く別の典拠があるのか、残念ながら筆者はその答を知りません。不思議な呼称だなあと思うに留めておきます。 福光城には長く福光氏が居住していました。福光氏の系譜ははっきりしない部分もあるようですが、大雑把に言えば石見益田氏の一族であった周布氏の庶流ということでよいようです。益田氏の一族には他に三隅氏や福屋氏などがいて、戦国時代には同族間でくっついたり離れたりしながら小競り合いを続け、全体としては尼子氏、後に毛利氏に従って行ったとされています。周布を名乗る一族は毛利家臣として存続し、幕末には周布政之助なる志士を輩出しています。一方の福光氏はどこかの時代からだんだん力を失っていったらしく、福光氏の所領であったはずの場所が毛利氏によって別の者に安堵されたりしていきます。そうした中で福光の地を拝領したのが石見吉川氏の吉川経安でした。石見吉川氏は吉川本家の分家で、経安自身も他家から吉川家に養子に入った人物ですが、吉川本家に毛利家から養子(吉川元春ですな)が入ったのを機に、本家もろとも毛利方に属することとなりました。経安の子がかの有名な吉川経家。あの鳥取城籠城戦(羽柴秀吉による干殺し作戦が有名なあれですな)で鳥取城将として迎え入れられ、城兵の命と引き換えに切腹して果てたとされる、あの経家です。経家は切腹に当たって遺言を父に宛てて残したとされ、経安は恐らく福光城でその遺言を受け取ったものでしょう。乞われて鳥取城に乗り込みながら、鳥取城兵にもその将たちにも戦らしい戦をやらせてもらえず、その城兵や将の命と引き換えに自らの命を差し出した吉川経家に無念の気持ちがなかったとは思えず、その遺書を受け取った経安もまた、無念の思いを噛み締めたことでしょう。しかし彼らはただの一言も不平らしきことを残すことなく、静かにこの世を去っていきました。これぞ不言。不言の名を冠するお城は、ものの見事に不言を体現した城主たちによって守られていきました。吉川経安の墓は今も福光城下の浄光寺に残されています。 福光城は一応の整備がなされていて、国道9号線沿いには駐車スペースも用意されています。ただ筆者は夏に訪ねてしまったので、草が・・・(笑)。いえいえ、そんな季節に訪ねた筆者が悪いんです。歩けるだけ良いと思わなければ!登城路の途中には石垣で固められた番所の跡も残されています。主郭周辺の石垣ですらまばらな中、これだけしっかりした基礎を持つ番所が設けられたのは何でなんでしょうね。ずいぶんと立派な番所です。城内には要所要所に標柱が立てられているのですが、吉川氏ゆかりのお城までの距離と方角を示した標柱には驚きました。「岩国城100km」って・・・見えっこないのですが、この標柱を作った人は、この城に吉川一族が住んでいたことに強烈な誇りを抱いていたんでしょうね。標柱は言葉を発することはできませんが、どんな説明よりも福光城に根差す吉川氏の誇りを雄弁に物語っていました。こういうのも「不言」の精神なんでしょうかね。 |
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| 石垣、土塁、堀 | |||||
| 創築:不詳、福光氏 | |||||
| 福光氏、吉川氏 | |||||
| 国道9号線沿いに不言城の看板が立っていて、そこに車を停め、橋を渡って不言城へと歩いて行くことができます。 | |||||