膳所城
ぜぜじょう

(滋賀県大津市)
最終更新日:2012.7.21

地図

<2012.7.21記>
岡山から静岡を経て長躯東京へと戻る途中、ここだけは見ておきたい、と思って膳所城に立ち寄りました。大きな道路に面した公園の前面にはとってつけたような堀が穿たれ、一応「城跡公園として整備しました」という建前だけは感じることができました。想像はしていたものの、石垣の残石が転がるだけの本丸の地からは、荒城とか廃城とかいった空気はあまり感じられず、むしろ普通の公園としての印象だけを感じることとなりました。湖岸に回り、当時のものらしい石垣を眺めたところで、私は車へと戻り、まだまだ長い道のりに向けて出発したのでありました。

2012年7月の新聞報道によれば、この膳所城の前を南北に通過する湖岸道路と近江大橋が交わる辺りの道路下から、膳所城の北の丸の石垣と瓦片が発掘されたとのことです。今はその全貌がほとんど地中に埋もれている膳所城ですが、調査が進めばまだまだいろんなものが地下に眠っているのかもしれません。
Data
ランク 「100選」「滋賀県10位」
門(移築、重文)、石垣
創築:慶長6(1601)年、徳川家康
戸田氏、本多氏、菅沼氏、石川氏、本多氏(膳所藩、70000石)
徳川家康のいわゆる「天下普請」の第一号となったお城として、知る人ぞ知る幻の名城です。縄張りは築城の名手・藤堂高虎。西国大名の助力によって築かれたこのお城は琵琶湖に突き出た浮城として、湖に映る四重四階の天守の姿とともに長くその美しさが語り継がれてきました。交通の要衛・瀬田の唐橋からほど近いこの場所は徳川家康によって直々に選定され、わざわざ大津城を廃止してまで新たに築かれたものです。なお、その結果、大津市には坂本城、大津城、膳所城と、湖に突き出たお城が三つも築かれ、そして埋もれることとなりました。膳所城も現在はほとんどが埋もれています。
膳所城には戸田氏、石川氏、本多氏など、譜代の有力氏族が配されており、徳川幕府としても相当この地を重要視していたことがわかります。ただ幕末には、相当早い段階で新政府側につくことを決めていたようで、大政奉還の後、ほどなく膳所城は解体されることとなります。石垣はどうやら琵琶湖疏水の建築時に石材として運び出されたらしく、それもまた膳所城の地がお城らしさを失う要因となったようです。もっともこの早期解体によって、「使える」城門が移築されることとなり、現在でも膳所神社(本丸大手門)、篠津神社(北大手門)、鞭崎神社(南大手門)にそれぞれ現存し、国の重要文化財に指定されています。





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