長浜城
ながはまじょう



所在地:滋賀県長浜市公園町
最終更新日:2020.4.5

<2013.1.27記(2020.4.5改)>
歴史的には非常に重要なお城でありながら、琵琶湖のほとりには名前だけを残してほとんど消え去ってしまったお城が沢山あります。膳所城しかり、坂本城しかり、大津城しかり・・・この長浜城もまた、少なくとも地表面からははほとんどお城らしい面影を見つけ出すことができなくなっています。
とはいえ、やたらと小顔の天守が建っていることもあり、駐車場も完備した、大変訪ねやすいお城であることは間違いありません。私が訪ねた際も、広々とした駐車場に車がぱらぱら・・・という感じでした。
時折小雪のぱらつく寒い日で、太閤の井戸の周りの水辺に群がる水鳥たちも、やたらと寒そうにしていたのが印象的でした。
長浜城は天正元(1573)年、浅井・朝倉攻めの功として、羽柴秀吉が小谷城を拝領した後、小谷城を廃して琵琶湖畔の地に新たに築城したのが始まりです。秀吉はその後、西へ西へと領地を拝領していきますが、長浜もずっと領し続けます。それが本能寺の変、更に清州会議を経て柴田氏の領するところとなり、柴田勝家の甥の柴田勝豊が入ります。ただ、後の賤ヶ岳の戦いにおける領民の秀吉への協力ぶりから見ても、秀吉に愛着を持つ地で秀吉の後任として統治するのはさぞ大変なことだったでしょう。
長浜はその後、山内一豊の領するところとなり、一豊が掛川に転じた後は一時石田三成の支配下となります。関ヶ原の後には内藤氏が4万石で入り、一瞬ですが「長浜藩」が成立します・・・が、その後、天下普請による彦根城の築城が始まり、長浜は彦根藩の一部となって長浜城も破壊され、用材も彦根城へと運び込まれます。もしかしたら石垣も運ばれていったのかもしれません。ちなみに彦根城の天秤櫓門(重文)は、長浜城から持って行ったものとも言われています。
なお、現在でも長浜城の地下にはそこそこ石垣が眠っているらしいです。また、先に述べた天秤櫓門の他、いくつかの城門が城下に移築されて現存している模様です。なお、外堀のラインは現在も水路として辿ることができるようです。
かつて天守があった場所からほど近いところに現在の模擬天守が建てられています。上層部が異様に小さい「小顔」の天守ですが、これはこれで特徴的で、長く見ていると意外と親近感を覚えます。
Data
ランク 滋賀県9位
天守(模擬)、門(移築)
創築:天正元(1573)年、羽柴秀吉
羽柴氏、柴田氏、山内氏、内藤氏(長浜藩、40000石)
長浜駅の西口から大通りを越えると豊公園の敷地に入り、ほどなく天守に辿り着けます。車の場合は豊公園の南東の端に大きな駐車場があります。天守からそれなりに離れていますので、特に天守の前を通過してから駐車場を探すと「あれれ?」という気分になるほど天守から離れていきますが、豊公園の駐車場は1ヶ所しかありませんので、必ずこちらまで迂回しましょう。

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