用土城
ようどじょう

(埼玉県大里郡寄居町)
最終更新日:2016.10.30

地図

<2016.10.30記>
このお城の正確な場所を示してくれるサイトが少なくて、現地近くで結構彷徨いました。Googleマップで見ると「寄居町農業ふれあいセンター」と記されている場所が用土城の石碑のある場所で、寄居から車だと国道254号線を北上して仙元前交差点を右折し、蓮光寺という比較的大きなお寺の手前を左斜め前に曲がってまっすぐ進めば辿り着けます。
花園城を見に行くオフ会の帰り、そのまま帰るのはもったいないとハンドルを切って、その「左斜め前」の道に入った瞬間に、同乗頂いた皆様から「どっかに寄り道する!」と歓声が上がりました。この歓声が気持ちよくて、ついついオフ会の際には下調べしちゃうんです(笑)。何もないお城ですが、石碑ひとつあれば歴史を感じることができるのがこの用土城のいいところ。後北条氏にお家を乗っ取られた藤田氏(用土氏)に想いを巡らせながら、しみじみと石碑一つを味わうという・・・こういうお城めぐりも「あり」だと思います。
Data
ランク -
-
創築:天文15(1546)年、藤田康邦
藤田(用土)氏
用土は今でも寄居町に属していますが、地図で見るとものすごく不自然に突出した地域になっています。それでも用土が寄居町なのは、寄居町に根付いた国人領主・藤田氏の支配領域が現代に至るまで尊重されているからなのでしょう。
用土城は北条氏邦を養子に迎えた藤田康邦が、自らの隠居城として建てたお城というのが通説です。藤田康邦はここで「用土新左衛門」と名乗りを変え、藤田の姓をそっくりそのまま氏邦にくれてやったという野もまた通説です。残念ながらこの通説にも異論が出ており、藤田康邦と用土新左衛門は別人であるとの意見も強くなってきているのですが、用土城を眺める際には藤田の名を捨てた用土新左衛門(藤田康邦)が、無念の思いをかみしめながら余生を過ごした場所、と考えた方がロマンチックかもしれません。
なお、用土城は緩斜面の微高地を活用した土の城だったようで、高低差もほとんどなかったためか早くから耕作により崩されてしまい、現在では堀の跡すら辿るのが困難な状況です。





inserted by FC2 system