忍城
おしじょう


所在地:埼玉県行田市本丸
最終更新日:2020.2.26

   
<2012.3.13記>
忍の浮城として、はたまた小田原の役では石田三成の水攻めにもめげず、最後まで開城しなかった「のぼうの城」の舞台として、あまりにも有名になったお城です。天正18(1590)年の小田原の役における水攻め失敗の逸話にはいろんな尾ひれがついていますので、ここではあまり多くを語らず、水攻めでも落ちなかった、という事実のみを記しておきます。
もともとはこの地を治めた成田氏が本拠地として築いたのが始まりで、築城から概ね100年余、成田氏はここで着々と力を蓄えていくことになります。成田長泰の時代には上杉謙信に従って鎌倉に赴き、謙信の関東管領就任式にも出席しますが、ここで謙信から決定的な侮辱を受けた長泰は後北条氏側へと鞍替えします。子の成田氏長は小田原の役を小田原城内で迎えることとなりましたが、落ちなかった忍城は小田原の役の後、とりあえず召し上げられました(成田氏はその後、栃木県の烏山で大名として存続しますが、惜しくもお家騒動により取り潰されました。忍城はその後、譜代の中でも親藩に近い家や老中輩出の家などが続々と藩主となる、関東でも指折りの大藩となり明治を迎えます。「ひと声10万石」の譜代大名は、案外多くはありませんから、忍藩、やはり大したものです。
さて忍城そのものはというと、本丸こそそこそこの大きさを有していましたが、その他の曲輪はまるで小島のように堀の間にぷかぷかと存在していた様子が、絵図面等から窺えます。忍城は、普段から浮城だったのですね。大雨の時など、大丈夫だったのでしょうか・・・天守に相当する「三階櫓」は、大手のすぐ脇、三の丸に建てられました。現在の模擬天守は本丸に建っていますので、当時の三階櫓の位置とはずいぶん違う場所に立っています。
昭和30年代頃までは、市役所の脇にも低湿地となった堀が残っていたようですが、徐々に埋め立てられ、今ではほとんどお城の面影をしのぶこともできなくなりました。本丸の北、東照宮の北側に残る土塁と水堀が、わずかに当時のままの姿を伝えています。ただし・・・現在の模擬天守(博物館)では、現在の行田市街とかつての忍城とを重ね合わせた地図が販売されていますので、これを持って町に出ると、道路やわずかな高低差によって、ある程度お城の位置と範囲を窺い知ることができるようになっています。埼玉県の土のお城には、川越城やこの忍城のように、そうした「城探しの町歩き」が楽しめる町が結構あります。かつてのお城の姿を偲びながら、地図を片手に町を歩くのもきっと楽しいのではないでしょうか。

<2020.2.26>
忍城はめでたく続100名城に選定されました。遺構だけで見たらもっとよいお城は沢山ありますので、選定理由は石田三成効果か、あるいは「のぼう様」の効果かもしれませんね。ただ、公園化されている今の忍城も、周囲をぐるっと回ってみると土塁が妙に高いところがあったりします。「おや?」と思う場所にはなるほどやはり、「土塁」の標柱が。天守周辺の「近代的な」復元に目が行ってしまいがちな忍城ですが、目が慣れてくると本丸土塁も案外しっかり残っていることに気付きます。忍東照宮の裏側には水堀もありますし。8年前にも書いた通りなのですが、忍城はやっぱり遺構を探し当てながらの散策が一番楽しい楽しみ方のような気がします。
ランク 続100名城
天守、門(以上模擬)、土塁、堀
創築:文明10(1478)年、成田正等・顕泰
成田氏、松平(深溝)氏、松平(東条)氏、松平(大河内)氏、阿部氏、松平(奥平)氏(忍藩、100000石)
  行田市役所のすぐ隣、いってみれば行田市のど真ん中にあります。行田市駅からも十分に歩ける距離です。
続100名城スタンプは本丸にある行田市郷土博物館の中です。この博物館と建物続きの別館が、忍城の写真で必ず見る模擬天守です。

忍城フォトギャラリー





inserted by FC2 system