大蔵館
おおくらやかた

(埼玉県比企郡嵐山町)
最終更新日:2016.9.6

地図

<2016.9.6記>
私たちのお城仲間で「城ソムリエ」の異名を持つお方が案内してくれるオフ会に参加した時のこと。
菅谷館を出て中城(なかじょう=小川町にあるお城=で、間違っても「なかぐすく」ではありません)に向かうまでの間に「もう一ヶ所くらい行きましょう」と仰るので、調子に乗って
「じゃあ、しんみりするやつでお願いします。」
と無茶ぶり注文。ところが、
「承知しました。」
と、涼しい顔で案内されたのが、ここ大蔵館。「?」となる一同を相手に、涼しい顔の案内人さん、
「木曽義仲のお父さんが討たれた場所ですよ。」
と。
おお!それは確かにしんみりする!
城ソムリエの奥深さを体感したお城となったのでした。
Data
ランク -
-
創築:仁平3(1153)年、源義賢
源氏
武蔵嵐山には畠山義忠の館と伝承された菅谷館を筆頭に、鎌倉時代あるいはそれ以前に遡る武家の館が点在していますが、大蔵館もそうした伝承を持つ館のひとつです。源氏の頭領・源為義の次男・義賢が関東に派遣されて館を構えたのがこの場所と言われており、後に為義の嫡孫で源義朝の長男でもある源義平と義賢との間で同族間の戦いとなり、義賢は義平によって討たれてしまいます。義平、このとき若干15歳。以来、鎌倉悪源太との異名を取り、しばしの間大暴れすることとなりますが、それはまた別の話。
義賢の遺児・駒王丸は落ち延びで木曽谷に匿われ、後に木曽義仲として再び世に出てくることになります。
大蔵館はそんなしんみりした展開の舞台となった場所。現在の大蔵神社の建つ場所がその故地とされ、境内にはうっすらと土塁も残ります。鎌倉以前の武家館がどの程度の規模を有していたかは知る限りではありませんが、かつてはもう少し広い敷地を持っていたことでしょう。伝承と伝承地とが一致している保証もありませんが、大蔵の地は鎌倉時代以前から「大蔵宿」として一定の人口を有していた場所とされており、この近郊に義賢の館があったことは間違いないでしょう。
なお、大蔵館の西、都幾川のほとりには「木曽義仲産湯」の伝承を持つ清水が湧き出ています。





inserted by FC2 system