青鳥城
おおどりじょう

(埼玉県東松山市)
最終更新日:2016.9.7

地図

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<2012.5.3記>
比企地方のお城を初めて訪ねた際に、菅谷館で出会った、やはり同じようにお城を見て回っている初老の男性から、
「青鳥城は、いいよ。」
というお話を聞きました。比企といえば国指定史跡の4城(松山、杉山、菅谷、小倉)が突出しているイメージがあり、実際に突出してもいるのですが、その他にも遺構がしっかり残ったお城は沢山あり、青鳥城もその一つです。それにしてもこの青鳥城、実際に話を聞くまで(声で聞くまで)、「あおとり」だと思っていましたが、「おおどり」なんですね。お城の読み方というのは、実際に聞いてみないとわからないことも多いものです。静岡ではまず間違えることのない「丸子(まりこ)」も、「まるこ」と読まれることの方が多いようです。
現在の青鳥城は、関越自動車道の東松山ICを降りてすぐ、という、訪ねるにはもってこいの場所にあります。が、近すぎて意外と見落としやすく、ICを降りて国道254号線を嵐山方面に向かったら、最初に右側に見えるガソリンスタンドで鋭角に右折する!と覚えておくとスムーズだと思います。で、右折したらすぐ左手の丘の上がもう青鳥城の本丸です。少し進むと「青鳥城」の看板とともに小さな駐車場がありますので、車はそこに停めましょう。恐らくそこ以外には、路上駐車するスペースもありません。無理に探すと、城域の内外を車でうろうろ・・・ということになりかねません。そもそも青鳥城は、本丸自体も畑となっていて、ほぼ常に耕作中の方がいらっしゃいますので、訪問の際にはくれぐれも失礼がないようにしたいものです。私も邪魔にならぬよう、そ〜っと入って、本丸の土塁から堀を覗き込んだだけで、そ〜っと出てきました。
Data
ランク -
土塁、堀
創築:12世紀頃?
狩野氏?
近隣にある菅谷館と同じく、方形の館を本丸とし、段階的に二の丸、三の丸と拡張していったもののようです。歴史がはっきりしない割には、しっかりと広大な敷地に築かれている点も菅谷館と共通です。「源平盛衰記」には、源頼朝が「青鳥」に陣を構えたことが記載されているようですから、相当古くからこの場所には何らかの構築物があったものと推察されます。また、「太田道灌状」なるものには、文明12(1478)年に、扇谷上杉定正と太田道灌が青鳥に陣を構えたという話も出てきます。後北条氏の時代になって、「小田原衆所領役帳」に「狩野介四十貫目、比企郡青鳥居、久米新左衛門四十五貫松山筋石橋」というのが出てきますから、素直に読めば青鳥に狩野氏が在住していたことは間違いなさそうです。
小田原の役(天正18(1590)年)には、この場所に前田利家が陣を構えたとの記録があります。これを、「前田利家が青鳥城を落として占領した」と取るか、「前田利家が廃城となっていた青鳥城に陣を構えた」と取るかによって、青鳥城の廃城の時期が変わってきますが、青鳥城にある説明看板では、「青鳥城にいた山田氏を前田利家が攻略した」ということになっています。中途半端に文献に登場するので、却ってやっかいなお城なのかもしれません。
お城は台地の先端に造られた方形の本丸を二の丸、三の丸が囲む形で作られています。本丸、二の丸の土塁、堀は決して見学しやすい状態にはありませんが、相応に残存しているようです。また、関越道を挟んだ東側には、三の丸の外堀の一部が池になって残っているようです。二の丸には青鳥城に関連した大きな板碑もありますので、訪ねる際にはしっかり駐車場に車を置いて、ゆっくり歩き回ることをお勧めします。





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