奈良梨陣屋
ならなしじんや

(埼玉県比企郡小川町)
最終更新日:2016.9.14

地図

<2016.9.14記>
小川町と嵐山町との境界線近くに存在する、八和田神社。このあたりの字名は奈良梨といい、八和田神社のあった場所にはかつて奈良梨陣屋と呼ばれた陣屋がありました。
そんな話も、案内頂いた方に奈良梨陣屋まで連れて行って頂いて初めて知りました。陣屋の主を聞いてまたびっくり。奈良梨陣屋は、武田に追われて本貫の地を失った諏訪氏が徳川氏のもとで細々と過ごしていた時の陣屋だったんですね。諏訪氏はその後、諏訪高島城の主となって郷里に返り咲くことになるのですが、いつ復帰できるともわからぬ状況の中、この陣屋で過ごしていた頃の諏訪氏の気持ちはいかばかりだったでしょう。
わずかに残る陣屋の跡が、そんな諏訪氏の大願成就のストーリーをも、今に伝えています。
Data
ランク -
土塁、堀
創築:天正18(1590)年、諏訪頼忠
諏訪氏
天正18(1590)年、諏訪頼忠によって築かれた陣屋と伝えられます。天正18年といえば小田原の役の年で、この年に関東では後北条氏が駆逐され、徳川家康が関東へと移封された年に当たります。諏訪頼忠は武田信玄に殺害された諏訪頼重の従兄弟に当たる人物ですが、武田勝頼に従って諏訪家の頭領たる大祝の役目を担うこととなり、武田氏滅亡の後は諏訪の旧領を占拠して徳川家康と対峙し、和睦の末に諏訪の地を守り抜いた人物です。が、和睦の時点で徳川家康に臣従したと見なされたことで、徳川家康の関東移封で諏訪の地を離れる羽目に陥りました。
頼忠はまず奈良梨の地に陣屋を築きますが、間もなく上野国総社に異動となります。そこでも旧領回復に向けて様々な運動を繰り広げたのでしょう。次の頼水の代になると、諏訪氏は晴れて諏訪の地に返り咲くこととなりました。
奈良梨陣屋はそんな諏訪氏の、ある意味最も不遇な時代を過ごした場所とも言えるわけですが、格式としては1万2千石の大名扱いなので、そこそこの暮らしをしていたことでしょう。なお、比企地域に数多く残る土の名城、特に杉山城は奈良梨陣屋の目と鼻の先にあるわけですが、諏訪氏はなぜこれらを使わなかったのかとふと疑問になりました。が、よく考えてみたら、奈良梨陣屋は現在も小川町に属しており、杉山城などのある嵐山町とは昔も今も行政区域が異なっていたのですね。杉山城はそもそも諏訪氏の支配地域の外にあったのでしょう。
奈良梨陣屋の遺構としては八和田神社の東側に残る土塁だけとなっています。





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