武蔵松山城
むさしまつやまじょう

(埼玉県比企郡吉見町)
最終更新日:2012.4.19

地図

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<2012.4.19記>
近くて遠いお城でした。何度も何度も近くまで行っているのに、吉見百穴も見ているのに、近隣にゴルフにも行っているのに、どういうわけか、なかなかお城そのものを訪ねる機会がないまま、実に20年以上もの月日が流れてしまいました。ある時などは、お城に隣接する寺院の山門をくぐって、竪堀と思しき急斜面に取り付くところまで行ったのですが、雨上がりの急斜面は登坂者を全く寄せ付けず、ぬるぬるつるつると滑り落ちた挙句に時間切れで散策を断念する・・・などという事態も体験しました。
これではいけない!と思い立ち、とある年の3月に、今度はこのお城を訪ねるためだけに、吉見町を訪れました。折しも当時は国史跡指定を受けた整備事業の真っ最中で、お城を覆っていた木々の多くが伐採され、地面に刻まれた遺構が実に見やすくなっておりました。この時も、かの「竪堀」に挑みましたが、よじ登ってよくよく見れば、ちゃんとした散策路がしっかりついているではありませんか。しかも散策路を素直に見た方が、遺構そのものもはるかに見やすくできています。竪堀を登るのはやめましょう(診たら登りたくなると思いますので、敢えて進言致します)。
話が横道にそれましたが、遺構そのものは実に見やすく、「おお!」と一人で歓声を上げながら、お城の中を駆け回ったものです。この原稿を書いている段階で、それからはや2年ほど経過していますので、今ではもっともっと見やすくなっていることでしょう。
Data
ランク 「埼玉県3位」
土塁、堀
創築:応永6(1399)年、上田友直 改築:天文年間、上杉朝定
上田氏、上杉氏、後北条氏、太田氏、松平(桜井)氏(松山藩、50000石)
松山の地は関東地域の覇権を巡る渦中にあって、めまぐるしく支配者層が入れ替わります。そもそもの起こりは応永年間、扇谷上杉氏の家臣であった上田氏がこの地の守備を任じられたことに始まり、基本線としてはこの上田氏が本来のこの地域の支配者となります。小田原の役の際には上田憲定なる人物がこの城の主であり、後北条氏の命によって小田原に籠城したと言われています。ただ、その間がめまぐるしく、後北条氏の城になったり上杉氏の城になったり、その上杉氏も扇谷上杉氏だったり上杉謙信だったり、上杉謙信に落とされたり、北条氏康と組んだ武田信玄(信廉とも)に落とされたり、枚挙に暇がないほどに戦いを重ねます。攻城の様子もまた多彩で、太田資正が守っていた頃、ともに支配下にあった岩槻と松山の間の連絡用に、大量の軍犬を飼っていたとか、武田氏が攻めた際には城に向かって多数の穴を掘り、水源を断ったとか、何しろ逸話に事欠かないお城です。最終的には松山藩5万石のお城として、松平(桜井)氏が居城とした後、川越藩の飛び地となって、お城としての命運はここで尽きます。
お城そのものの遺構もすさまじく、比較的平らな山上を無数の堀が取り囲み、複雑に入り組んだ縄張りを有しています。平成20(2008)年には、「比企城館群」のひとつとして国の史跡に指定され、以後断続的に発掘整備が進んでいます。





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