川越城
かわごえじょう

(埼玉県川越市)
最終更新日:2016.8.16

地図

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<2001.11.3記>
とおりゃんせ とおりゃんせ
ここはどこの細道じゃ・・・

川越城とその城下町のあまりの迷路ぶりに生まれた歌ですが、そういった情景を思い浮かべるには、川越城はあまりにも失われたものが大きいような気がします。
全国でも珍しい、現存の本丸御殿は、駐車場と道路に押しのけられながら、それでもきりりと眉を上げ、遠慮のない往来の視線に対して、毅然とした態度を取り続けているようです。でもその毅然とした姿の先にはグラウンドがあって、軟式野球の大会アナウンスがあたりに響き渡っていました。
お城らしさは本丸御殿の周辺にわずかに残り、取り残された小山のような「富士見櫓」の跡が、かつては巨大だったこのお城の面影を伝えています。

<2010.2.11記>
その後、本丸周辺の公共建造物も、徐々にではありますが撤去されたりしているようで、お城としての貫禄と落ち着きを取り戻しつつあるようにも見受けられます。2009年には、本丸と二の丸の間にわずかに現存していた堀が川越市によって買い上げられ、模擬城門を伴う城址公園として一般公開される予定である旨が報道されました。
富士見櫓の周辺の地形も、よく見れば堀の形を残しているようでもあり、探せばまだまだきっと、お城らしい場所が眠っているような気もします。
それはそうと、2007年の夏に訪れた際には、かの「とおりゃんせ」の三芳野神社の境内にヒップホップが鳴り響き、高校生と思しき少女たちが5、6名、一心に踊りを練習していました。城跡と神社とヒップホップ。過去と現代との、鮮やかな対比でした。

<2012.1.28記>
2012.1.14、mixiのお城めぐりしよう!コミュのオフ会が開催されました。市街地に埋もれてしまった川越城にも、意外とお城の匂いが残っている、というテーマで、本川越駅から川越市役所、中の門跡と堀、本丸御殿、富士見櫓、川越喜多院をぐるっと回るツアーで、40名以上の参加者に恵まれ、大盛況のうちに無事終了致しました。あまりの人数の多さに、当初は一参加者のつもりで名乗りを上げていたものが急遽説明者側に回ることとなり、慌てて下調べしたのはここだけの話(笑)。それでも土地の高低差などから、意外なくらいお城の状況を想像できることに自分自身でも気づくことができ、有意義なオフ会でした。
Data
ランク 「100名城」「100選」「埼玉県6位」
御殿(現存)、土塁
創築:長禄元(1457)年、上杉持朝 改築:承応2(1653)年、松平信綱
酒井氏、堀田氏、平岩氏、松平(長沢)氏、松平(大河内)氏、柳沢氏、秋元氏、松平(越前)氏、松平(松井)氏(川越藩、84000石)
創築は少なくとも15世紀にまで遡り、扇谷上杉氏の上杉持朝が太田道灌とその父に命じて川越と江戸の2城を築かせたのが歴史上の初見となるようです。当時から関東7名城のひとつとして、また扇谷上杉氏の重要な拠点のひとつとして位置づけられています。
そんな川越城が後北条氏に奪取され、後北条氏の関東支配の最前線となったことで、やがて古河公方と両上杉の大連合軍に取り囲まれることとなります。これを劇的に打ち破り、その後の後北条氏による関東支配を決定付けたのが史上名高い「河越夜戦」です。
話は飛んで(笑)、江戸時代に入ってからは親藩級の大名が入れ替わり立ち代わり川越藩主となります。現在(といってもほとんど地中ですが)の規模になったのは、世に「知恵伊豆」と呼ばれる松平信綱が川越藩主となってからのこと。ちなみに現在残る本丸御殿玄関は、江戸末期の嘉永元(1848)年に、松平斉典によって建てられたものです。
現在の川越城はほとんど盛時の威容を失っていますが、これは明治になって最後の藩主が自ら堀を埋めたらしいことも一因となっています。それでもよく見ると、住宅の間に堀らしき地形が残っていたりします。また、平成になってから、私有地の中に残存していた堀を堀として復元し、一般公開されるようになりました。更に、平成23年にはおよそ2年半に及ぶ大修理を終えた本丸御殿が、再び公開されるに至りました。
そうそう。忘れてはいけません。本丸に隣接する三芳野神社は、本丸に隣接しているにも関わらず、時間限定で一般参詣が許されていました。「行きはよいよい帰りはこわい」の「とおりゃんせ」は、この神社へのお参りのことを歌ったものです。





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