池田城
いけだじょう



所在地:大阪府池田市城山町
最終更新日:2018.4.18
<2018.4.18記>
池田城というとお城好きを自称する方々が一様に「残念な天守」と表現する楼閣建築がクローズアップされるせいか、訪ねてみるまでそれほどの期待感は抱いていなかったのですが、実際にお城に立ってみると、この天守風建築があってもなくても城跡は城跡で、しかも想像以上にしっかりした城跡でした。大阪の都市部にあってこれだけの残存状況であれば十分なのではないでしょうか。特に本丸の切岸と、本丸の東側に刻まれた堀切は十分に見応えがありました。で、くだんの天守風建築ですが、そういう感動を持った上で眺めてみるとこれはこれでなかなかデザイン性に富んでいて、「悪くないんじゃないかな」という気になってきました。
池田城は、摂津の国人領主であった池田氏のお城でした。かつては頭の中で池田城と池田氏と池田恒興・輝政親子が重なって記憶され、なんとなく姫路城を築いた池田輝政がかつて池田城にいた池田氏の出であると錯覚していました。確かに池田父子は一時期摂津国にいたことがありますが、池田城の池田氏とは全く無関係なんですよね。うーん。紛らわしい。池田城にいた池田氏は南北朝時代から延々と池田を領し、織田信長の旗下で本領安堵されていました。戦国の風を乗り切ったかと思った矢先に池田氏の目論見を狂わせたのが荒木村重の乱。そもそも荒木村重は池田氏の家臣からスタートしているんですね。それが次第に力をつけて主である池田勝正を追放し、池田氏は主従逆転して荒木村重の傘下に組み込まれます。池田城にはその後誰が入ったのかが定かではありませんが、荒木村重が信長に叛旗を翻した際には信長が池田城を自身の本陣としているので、既に空所になっていたのかもしれません。池田城は荒木の乱鎮圧後、そのままその役割を終えました。
こうした経緯のもと、池田城には安土桃山時代に突入した直後の城郭形態がそのまま残されることとなりました。発掘の結果明らかになった池田城は、中世以来の城郭に近世城郭の嚆矢とも言える枡形虎口を取り入れて無理やりに近世化した形跡がある一方、本丸には枯山水庭が発見されるなど、中世以来の国人領主の平和的側面が窺える遺構が姿を現しました。現在それらは礎石建物とともに平面表示され、かつての優雅な姿を偲ぶよすがとなっています。
Data
ランク 大阪府6位
天守(模擬)、門(模擬)、土塁、堀
創築:14世紀、池田氏
池田氏
阪急宝塚線の池田駅の北500mくらいのところで、本丸が「池田城跡公園」となっていますので、迷うことなく見つけ出せると思います。車で行く場合は近隣の五月山体育館の駐車場か、城跡公園の東側にあるコインパーキングを利用すると便利です。


池田城フォトギャラリー





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