千早城
ちはやじょう



所在地:大阪府南河内郡千早赤阪村千早
最終更新日:2023.8.2
<2014.2.11記>
楠木正成の伝説とともにあるお城です。楠木正成は戦前であればどんな教科書にも出てくる大英雄で、千早城も早々に国史跡の指定を受けており、歴史的価値は折り紙付きと言えるでしょう。楠木正成の山岳ゲリラ戦は下赤坂城に始まり、上赤坂城さらにはこの千早城と支城網を展開し、最終的には千早城が本城となって鎌倉幕府軍の猛攻に耐えたもののようです。その攻城戦というのか守城戦は神がかっているのでどこまで本当なのかよくわからないところも多々あるのですが、この山城で鎌倉幕府の精兵を迎え、そして100日ほども持ちこたえたというのは脅威です。千早城の戦いがその後の山岳戦や山城構築上の大きなヒントを与えたであろう点はもちろん、攻城戦の失敗が鎌倉幕府の権威に決定的な打撃を与え、鎌倉幕府滅亡の一因と作ったという点でも、まさしく歴史の転換点にあるお城と言えるでしょう。
楠木正成の活躍があまりにも華々しいために、千早城が正成の後、正儀、正勝と3代続いて守られたということはあまり知られていません。千早城は明徳3(1392)年の落城まで、およそ60年余りもの間、使い続けられました。そういう意味では相応に居住性も備えたお城だったはずなのですが、今日残る千早城は狭小な曲輪をいくつか重ね、尾根続きを堀切で切断しただけの単純かつこじんまりとした作りです。このお城でどのように暮らしていたのか、とても興味のあるところです。
大学4年の晩夏の頃、日本史ゼミの合宿で日根野荘の用水路を見学に来た時のこと。合宿の帰路に堺あたりでレンタカーを借り、一人別れて千早城を目指しました。ゼミ合宿も大事でしたが、私にとってそれより大事だったのが、そう。卒業論文!(笑)。
南北朝時代のお城というものの形を眺めてみないことには、論文を進めようにも進められない状態だったのです。実際に千早城に上ってみた結果、お城らしい構造物は切岸と堀切くらいであるということがわかり、それはそれで途方に暮れたものでしたが。
100名城スタンプなるものが出来たということで再訪の機運が高まり、高取城から和歌山城に向かう途中で千早城にも立ち寄りました。ただしこの時は、スタンプだけで退散と相成りましたが。スタンプ設置場所の「まつまさ」さん、きちんと山に登らなくてごめんなさい。
城内にある千早神社の参道には、凛々しい「まさしげくん」の看板が。こんなところにもきっちりとキャラクターが存在しているんですね。結構気に入ったので、近隣の道の駅でそれらしいグッズを探しましたが、残念ながら一つもありませんでした。

<2023.8.2記>
2023年の冬の大旅行では、「奈良ホテルに泊まりたい」、「千早城に行ってみたい」、「高取城にも行きたい」という難題を頂きました(笑)。岩国を折り返し点として東京まで戻ってくる行程の中で、福山から赤穂を経て奈良ホテルに向かい、翌日いったん西進して千早城を訪ねた後、再び山を越えて奈良に入り、高取城と宇陀松山城を訪ねて岐阜へと抜けるというウルトラミラクルな行程は、こうしたリクエストを受けることがなければ決して実現することのないプランでした。まあ毎年こんな行程であちこち出かけているわけではありますが、それにしてもこの数日間の移動はちょっと大変でしたね。今振り返ってみると。
スタンプを押す際にはいつも小ずるく売店でスタンプを押すだけで素通りしてきた千早城。今回は登ってみることにしました。千早城に登ったのは実に23年ぶりのこと。本当にご無沙汰してしまって申し訳ありませんでした。あまりに久々過ぎて、前回はあったはずの売店(まつまさ)がモンベルさんの山岳グッズ販売店に様変わりしていたのにはびっくり仰天。久々に登った千早城は相変わらず城の匂いが薄めではあったのですが、23年前の目では見ることができなかった(もしくはすっかり忘れていた)のが、千早神社の裏手にある「山頂」の存在。記憶の中ではてっきり山の最高所に千早神社が建っているものだと思っていたのですが、「本丸」との表示がある本殿の先にも更に高い場所があり、どうやらそこは「禁足地」になっているようなんですね。そうすると、実は千早城の中心部はむしろそちらにあって、千早神社のある曲輪がいわゆる生活空間だったのかもしれない、と思い至りました。立ち入れないので背伸びしたりジャンプしたりしながら山上の地形を確かめたのですが、どうやら段々になっているようです。この段々は、神社として使われた時期があったかもしれないのは勿論ですが、恐らく千早城があった頃からのものなのでしょう。23年前、これといった遺構を感じることができずに淋しく引き上げた千早城でしたが、もしかしたら案外痕跡を残しているのかもしれません。
Data
ランク 国史跡、100名城、100選
曲輪、堀
創築:元弘2(1332)年、楠木正成
楠木氏
千早赤坂村役場から県道705号線をひたすら登って行きます。千早城への案内看板はずっと出ていますので、迷わずに辿り着けますが遠いです(笑)。そしてその道は金剛山で行き止まり、奈良方面に抜けることができませんので、帰りもまた同じ道を帰ってくることになります。100名城スタンプは麓にある「金剛山 山の豆腐」に設置されています。


千早城フォトギャラリー





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