浦添城
うらぞえじょう

(沖縄県浦添市)
最終更新日:2017.3.5

地図

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<2017.3.5記>
浦添城の城内は、不思議な空気が支配していました。お城の入り口には二匹のネコがさしずめ門番のように佇んでおり(寝てましたが)、主郭内で大きな面積を占める御嶽は今も多くのエネルギーを吸い込んでいるようで、他のどのグスクの御嶽よりも強い力を放っているようでした。
浦添城のある丘に隣接する「浦添ようどれ」は、それ自体は墓地ですが、かつては浦添城の一部をなすものでした。その浦添ようどれは太平洋戦争の際、米軍の集中攻撃を受けて完膚なきまでに破壊され尽くしました。現在でこそ復元されましたが、地域信仰の対象であったグスクとようどれを失った地元の皆様の悲しみはいかほどのものだったのでしょう。浦添城の御嶽の醸し出す力は、もう二度とこの地を戦火に晒すことがないように、という強い願いが集まったものなのではないでしょうか。
Data
ランク -
石垣
創築:12世紀頃
舜天王統、英祖王統、中山王権
浦添城は三山時代に中山王権が居住した由緒あるグスクであり、島添大里城今帰仁城とともに他のグスクより高い格式を有していたグスクでした。更にこのグスクには中山王以前の伝承が残ります。伝承が正しければこのグスクは12世紀頃に琉球を支配した舜天王統と呼ばれる王権、更に舜天王統から禅譲を受けた英祖王統の居住したグスクとなります。舜天王統の初代である舜天なる人物は源為朝の子という伝説までくっついている人物で、どこまでを史実として信じればよいのかがわかりませんが、英祖王統の祖・英祖の墓とされているのが他でもない浦添ようどれなので、個人的には(為朝伝説はともかく)舜天王統、英祖王統ともにある程度の史実を含んでいるものと推測しています。
中山王権は英祖王統の後、察度、武寧という王によって継承されたとされています。この武寧が尚氏に倒され、南山王権と中山王権とが尚氏によって統一され、やがて北山をも併合して統一琉球王朝となっていくわけですが、この浦添城にはそうした琉球王朝成立史以前の歴史が詰まっています。
近世の浦添城は薩摩藩の侵攻により一度落城している他、太平洋戦争時代にはその立地が災いして日本軍の拠点となり、その結果として米軍の集中攻撃の対象となりました。浦添ようどれが完膚なきまでに破壊され尽くしたのはこの時です。
浦添城は現在公園として整備され、かつての静けさを取り戻しています。過去の経緯から浦添城の城としての遺構は少な目ですが、平成元(1989)年には国の史跡に指定されています。





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