撫川城
なつかわじょう

(岡山県岡山市)
最終更新日:2012.7.28

地図

<2012.7.28記>
撫川城と庭瀬城というふたつのお城が隣接していることを知ったのは、小6か中1の頃に無理を言って買ってもらった「探訪日本の城」全11巻を読破した頃のこと。庭瀬の駅から庭瀬城を探し歩いたある小説家が、道に迷っているうちに城跡らしい場所に辿り着くも、「撫川城」という石碑に「?」となり、やがて庭瀬城と隣接する別の城、撫川城の存在に気づくという展開が描かれていたと思います。とはいうものの、ふりがなのふられていなかったその本で覚えた記憶のままだったため、「撫川」を「なつかわ」と読むことに気づいたのは、この地の近隣に住む友人の助言あってのこと。危うく正しい読み方を知らないままで、撫川城を訪ねるところでした。
訪ねた日は大層暑い日で、夕方近くになっていたものの、それこそお堀の中にでも飛び込みたくなるような気温でした。と、お堀の中から、お城の前の小さな公園に出てきた白い影が二つ。見れば、あまりの暑さに耐えかねて、体操服のまま堀に飛び込んだ女子中学生の二人組らしく。誘ったとおぼしき片方の女子が、無理やり連れ込まれた感のあるもう一人の女子に向かってしきりに「ごめんね、ごめんね」と謝っている様子。やがて二人とも公園のベンチに横たわり、そのまま服を乾かしにかかったようでした。
後先考えず、思ったままを行動に移せるのは、若さの特権なのでしょう。汗をかきかき、私は本丸の跡へと立ち入り、ポストの中にあった案内パンフレットを一枚、有難く頂戴すると、そのまま次の目的地へと向かったのでした。
Data
ランク -
門(陣屋門を移築し現存)、石垣、堀
創築:永禄2(1559)年、三村家親
三村氏、井上氏、戸川氏
戦国時代に備中松山の地で勢力を蓄えた三村家親によって、対宇喜多対策のために築かれたのが最初のようです。三村氏は天正3(1575)年に毛利氏に滅ぼされ、その後は毛利氏に属した井上氏の属城として、また毛利氏の国境防備の城(毛利七城)のひとつとして、羽柴秀吉の備中侵攻に備えたと伝えられます。実際にこの撫川でも羽柴方と毛利方で激しい戦闘が展開されたようです。
本能寺の変を経たごたごたの後、この地は宇喜多氏の所領となりますが、宇喜多氏の臣としてこの城に入った戸川氏はやがて独立が認められ、2万石の大名として、近接する庭瀬城を本拠として「庭瀬藩」が立藩します。この時点では撫川城は庭瀬城の一部と化していたようですが、庭瀬藩主としての戸川氏は4代目の安風が早世したことで旗本へとランクダウン。あらためて撫川城の地に陣屋を築き、そのまま明治を迎えます。一方の庭瀬藩は戸川氏に代わって久世氏が入ることになったため、大名・久世氏の庭瀬城と旗本・戸川氏の撫川陣屋とが併存する形となりました。別々の武家による城と陣屋の直線距離としては、全国屈指の近さなのではないでしょうか。
撫川城の本丸はなかなか立派で、四方を水堀に囲まれて、石垣を備えた土塁によってしっかりと守られています。緩やかな傾斜の石垣は、全体の下半分だけが残ったような恰好になっていますが、それがまたいかにも古城らしく、大変に風情があります。惜しいのは交通の便で、自動車で行こうとすると周囲の道路が大変狭く、かつ駐車スペースも見当たらないので、公園の前に車を停めての駆け足見学を余儀なくされます。どちらかというと歩いて訪ねることをお勧めするお城です。





inserted by FC2 system